■「“笑顔で気働き”が加賀屋のモットー。お客さまへの心配りを教育されています」
’24年の元日、夜8時45分からの正月公演の挨拶口上を、メンバーで練習している最中だった。ゴーッと地響きが聞こえたかと思うと、加賀屋の劇場のステージが揺れだした。
レオンさんが振り返る。
「すぐにものすごく大きな揺れになって、上から照明のフィルターがバサバサッと落ちてきました。みんなに『とにかく頭を守って!』と、声がけしたのです」
れいさんは、座員の美里はる香さんに指導していた。
「ミラーボールが落ちて破片が刺さったら大変だ! と思いました。そこで、はる香ちゃんを守らなきゃと、覆いかぶさったんです」
全員のスマホから緊急地震速報が、けたたましく響く。16時10分、石川県能登地方を中心に襲ったマグニチュード7.6の大地震は最大震度7を観測(’24年11月現在、死者462人、不明3人)。本震直後から余震も続き、劇場の入り口の鉄扉が外れて倒れた。
「飛んできたっていうほどバーンと倒れて、が舞ったんです。照明の赤と粉塵が重なって、炎と見間違えた私は、思わず『火事だ、逃げよう!』と叫んでいました」(レオンさん)
気温6度。コートを着て外に出ると、大津波警報が……。加賀屋は海に面しており、和倉町一帯の避難場所のひとつは旅館から300メートルほどの高台にある寺院。
れいさんは500段ある石段を上がる途中、高齢の女性の足元がフラついているのを目にした。
「彼女に手を貸して、一緒に石段をのぼり切りました」
地震発生10分足らずでメンバー全員がたどり着いたが、警報はやまない。長期戦に備えるため、寺から100mほどの寮から布団や食料、水などを持ってきた。
真っ暗な境内で懐中電灯の明かりのみで、毛布にくるまって待機。
「冷蔵庫から持ってきた、おせちのかまぼこが、格別の味に思えました。ちょっとでもポジティブになればと、『森のくまさん』を歌い始めたのですが、誰もついてきてくれなくて……」(れいさん)
そこでリーダーのレオンさんが正月公演の口上を吟じ始めた。
「新年の、ご挨拶をさせていただきとぉ、ございます。夏輝レオンで、ございます!」
ようやくみんなから「よ~っ、なつき!」「レオン!」と声がかかった──。
加賀屋は創業118年の歴史を持ち、昭和天皇・香淳皇后、上皇ご夫妻、天皇皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻らが宿泊された由緒ある旅館だ。グループとして、県内に旅館5施設、全国にレストラン8店舗を構えるが、震災の被害で4施設1店舗が現在も休業状態にある。
加賀屋第二営業部長で勤続42年の森浩子さん(61)が、加賀屋の「おもてなし精神」を語る。
「先代女将・小田孝の信条『笑顔で気働き』が加賀屋のモットー。『お客さまが何をしてほしいか、言われる前にわかるよう、笑顔の会話を通じて気づく』心配りを、全スタッフが徹底して教育されています」
森さんは’24年元日夕方、姉妹館「あえの風」で、お客の出迎えの最中に地震に遭った。
同館には322人が宿泊しており、安全確認しながら、駐車場に避難誘導した。だが2人の負傷者が出て「病院に連れて行ってほしい」との要望もあり、車で高台の病院を目指すことにしたという。
「ところが、通行不可や大渋滞で、病院に着いたのは17時過ぎ。もうすっかり暗くなっていました」
22時過ぎに事務所に戻って仮眠しようとしたが、余震が続いて休まらない。翌朝、電車が不通のため、車で来館した人以外の約220人を、バスやワゴン車など計11台に分乗してもらい、見送った。
「次いつお会いできるか、わかりませんでしたから、なじみのお客さまとは、泣きながら抱き合って、お別れしたんです」
震災から3カ月後の4月に加賀屋グループへ入社した24人を代表して、辞令交付式で挨拶したのが、小坂雪乃さん(23)だった。
現在は金沢市の料理旅館「金沢茶屋」のフロントスタッフとして働く彼女は、震災当時は穴水町にある母の実家に帰省していた。
「夕刻、すごい揺れがあったとき、私は居間にいました。一緒にいた祖母をかばいながら、揺れが収まるのを待ちました」
電気もガスも止まり、ようやく映った車載テレビを見ると大津波警報が。
「家族全員で高台に避難する途中、近所の人たちが『家がつぶれた』『誰々が生き埋めになった』と叫ぶ声が聞こえました」
車中泊になったが、「漠然とした不安」で眠れなかった。
「なにもできず、毛布にくるまって、ただ夜明けを待ちました。でも見上げた星空が、すごく明るくて、美しくて、泣きそうになったのを覚えています」
加賀屋の女性たちは、それぞれの場所で不安に耐えていたのだ。
【後編】名門旅館・加賀屋専属「レプラカン歌劇団」被災地で慰問、東京でショー…「また能登で公演する日のため」奮闘の日々へ続く
(取材・文:鈴木利宗)