■信用を得るには、約束を必ず守る
「独立して気がついたのは、どの仕事でも同じだと思いますが、“締め切りを守る”というのはとても大切なことです。約束を守らなければ、信頼は失墜します」
時間にルーズな場合もある中国の工場をうまくコントロールしつつ、燕さんはサンプルや生地、ブック帳などを入れたスーツケースを引きずって営業先を飛び回った。このとき、燕さんは妊娠中だった。
「独立と同時に、語学学校時代の同級生と結婚して、ありがたいことに第一子を妊娠しました。女性だからといってキャリアと育児、どちらも諦めたくないので、あえてこのタイミングでの妊娠出産を選びました」
慎重に体を労りつつも、取引先に心配をかけないよう妊娠を隠して働き続けた。出産当日、どうしてもその日に工場から出荷しないと間に合わない荷物があった。すでに陣痛が始まっていたが、病院のベランダから工場に電話して出荷を念押しした。
工場長は「もう陣痛も始まってて、生まれそうなんです!」という燕さんに驚いたが、電話の結果、従業員総出で作業して出荷は間に合った。子どもも無事に生まれた。
■円安による打撃と挫折
独立した’10年は1ドル80円台だったが、第二次安倍政権が始まった’12年以降、徐々に円安は加速した。1ドル110円〜120円になると関係先含め燕さんも円安に苦しんだ。打開策として、製造だけでなくデザインから自社で請け負う“ODM”に舵を切ることにした。
「どこも『もっと安くしてください』と円安に喘いでいました。デザイン会社などが間に入る“OEM”では自社の取り分が減ります。利益がギリギリの中で戦いに勝つためには、自社でデザインまで提案する必要性があると考えたのです」
燕さんの行動は早かった。「東京モード学園」の体験講座を受講して、前の席に座っていた女性をいきなりスカウトしたのだった。
「もともとデザイン業務の経験者で、さらに学ぼうという向上心のある女性だったのでビビっときたんです。彼女も興味を持ってくれて、一緒に働けることになりました」
こうしてデザイナーとさらに社員を1人迎え、独立から2年後の’12年、株式会社Sホールディングスを設立。自宅の1部屋から、ついにマンションの1室を借りた本格的なオフィスがスタートした。
それから毎日、燕さんは早朝から延長保育ギリギリの時間まで子どもを保育園に預けて働いた。夜も営業する飲食店経営の夫には子の送迎は頼れず、仕事を終えるとパンプスからスニーカーに履き替えて走って迎えに行った。
「まだ迎えが来てない子どもはウチの子1人だけ。寂しそうに暗がりで待っているんです。胸が痛みましたが、お互いこんなに寂しくてつらい思いをしてまで仕事をするんだったら、“必ずこれを成功させなければいけない”と、さらに強く心に思うようにしました」
しかし、円安はますます加速し、傾く取引先も現れた。民事再生となる会社が続き、燕さんは払われるべき3000万円を失った。初めて不安で眠れない日々を過ごしたが、これまでの信用で仕事を繋ぎ、倒産は免れた。
さらに初めての自社ブランド設立も試みた。3歳になった子どもが父親とお揃いの服を着たときに「お揃いだ!」と喜んだことに着想を得て、’15年に親子のリンクコーデのブランドを立ち上げた。評判は良かったが、売れなかった。“客層の狭さ”と、それゆえにコストが上がり価格帯が高くなったことが敗因だった。
しかし、チャンスは突然訪れた。たまたま知り合いに「自社でネット通販をやりたい」と話したところ、「だったらZOZOTOWNを紹介しましょうか?」と提案されたのだ。’18年10月だった。
当時、ZOZOTOWNはすでに広く利用されており、新規出店のハードルは異常に高かった。それでも中国の複数の工場と直接取引をしてきたこれまでの実績から、他者と同じ品質ならより低価格で商品が作れると訴え、参入の“チャンス”が認められたのだ。
