■極貧生活の中で触れた福岡の女性の優しさ
日用品は中国からある程度持参したが、燕さんには初日にどうしても買いたいものがあった。「布団」だ。
「どこで買えばいいかわからず、街を歩き回ってようやく布団の置いてある店を見つけて入りました。『この布団をください』と言ったんですが、お店の人は渋い顔をしてなかなか売ってくれず、日本語もよくわからないので理由も聞けない。しまいには手でバツ印を作られ、結局あきらめて店を出ました。仕方なく、日本語学校に行って相談したら、学校で布団が買えたので、なんとかなったのですが……」
実は、最初に入った店は“クリーニング店”だったのだ。燕さんは後日そのことに気がつき、思わず笑ってしまったという。
とにかく食費を抑える必要があったため、燕さんが目をつけたのが30円ほどで買える“もやし”だった。
「安いし量もあるので、“お腹を満たす”という意味ではありがたいものでした。ただ、実家では料理もしたことがなかったので、食べ方もわからず、とりあえず唯一の調理器具だったもらい物の炊飯ジャーに水と一緒に入れてスイッチを押して……。部屋中にもやしの匂いが充満してすごかった(笑)。味付けは塩のみでした。
これで食費は1週間で1000円くらいで過ごせたし、当時の留学生はみんなそんな感じでした。でも、コンビニでアルバイトをしている子はおにぎりとかがもらえていたので羨ましかったです」
燕さんもすぐにアルバイトを探したが、当時はまだインターネットもそこまで普及しておらず、なんと“足”で探したという。
「アルバイトの募集をしてないか飛び込みで聞いて回りました。ある不動産店では日本語が不慣れなので不採用でしたが、担当者の女性が『この後、時間ある?』と聞いてきたんです。日本に来たばかりで初めての1人暮らしだと知り、なんと家までストーブや炊飯ジャー、食器などを届けてくれたんです。その優しい気持ちに感激しました。福岡は優しい人ばかりでしたが、その女性は特に心に残っています」
燕さんは、その後、授業のかたわら、時給700円で賄い付き居酒屋の皿洗いと工場でバーコードを読み取るアルバイトを掛け持ちしながら、福岡での1年を終えた。気づけば流暢な“博多弁”を話すようになっていた。
「このままじゃ中国へ帰れない。もう少し日本語も覚えて帰りたいし、“もっと日本で勉強がしたい”と思い、東京へ行くことにしました」
