かつて赤坂は華やかな花街。高度成長期には、芸能人や政財界のトップが毎日のように姿を見せ、夜の世界を400人以上の赤坂芸者が艶やかに彩ったものだ。
それがいま、残った料亭は2軒、芸者は20人弱……。花街のレジェンド・育子さんは決意した。赤坂に再びにぎわいを取り戻すと。
若い芸者や半玉(芸者見習い)たちを自宅に家族同然に住まわせ、踊りや歌を愛を込めて徹底的に仕込む。赤坂芸者の誇りをつないでいくために。
「生まれは、観光地として有名な水前寺公園のすぐそばでした」
育子さんは、1940年(昭和15年)2月21日、熊本市出水町(現・中央区出水)に生まれた。
「7人きょうだいの末っ子ですが、母は私が3歳のときにがんで亡くなっていて、顔も覚えてません。ですから、19も年上の長姉が母親代わりでした。
小学校の放課後に雨が降っても、私だけ傘を持ってきてくれる母さんがいない。いまも童謡の『あめふり』を耳にするたびに泣けてくるんです」
父親は市の交通局の技術者で、まじめな性格だったが、
「それが、いったんお酒を飲み出すと、お給料も使い果たすような人でした。だから、いまでも酔っぱらいは嫌い。
そんな私が花柳界で働くようになるんだからね……」
人生の転機は、商業高校に入学してすぐのこと。ふと訪れたデパートで、着物姿の半玉さんと出会う。
「かわいい着物に目がくぎ付けになって話しかけると、地元の芸子さんで、お稽古しながらお給料までいただけるというじゃない。勉強も嫌いだったし(笑)、お父ちゃんに『私、芸子さんになりたい』と言ったら、『絶対許さん』と。まあ、高校に入ったばかりだから当たり前なんですけどね。
でも、言い出したら聞かない私ですから、『どうしてもやってみたい』と書き置きを残して、風呂敷包みひとつで家出しました」
長唄の師匠宅に住み込み、“はん子”の名で半玉として働き始めた。
「稽古は苦になりませんでしたが、それ以上に先輩のお姐さんたちに対する礼儀作法が厳しかった。お茶屋の待合室で、お姐さんのコートを預かるなどの世話をして、お座敷でもビールがなくなりそうならスッと差し出す。
私、闘っていたのよ。負けず嫌いだったし、見番(花街の組合)の看板に売り上げの順位も出るので、当時、熊本の花柳界にも200人近い芸者さんがいたから、まずはトップ10に入ろうって」
生来の明るさとこまやかな気配りで、半玉から芸者になると、すぐに売り上げは上位に。それでも、切り詰めた生活を続けたのには理由があった。
「幼心に、うちの母のお墓が木のお塔婆で朽ちかけているのが悲しかった。
だから花柳界入りを決心したときから、いつか母のお墓を建てると決めて、1年半、お給料やご祝儀を貯めていたんです」
熊本で名を売って6年ほどしたころのことだった。ある常連客が言った。
「東京の赤坂には、日本有数の花柳界があるんだよ」
瞬時に「行きたい」と思ったが、熊本出身で当時はプロ野球巨人軍の監督だった川上哲治さんなど贔屓客たちに相談すると、
「九州の熊本の田舎芸者が、東京の花柳界で通用するわけがない」
誰もが口をそろえて言う。これが彼女の負けん気に火をつけた。
「好きで入った世界ですから、どうせなら日本一の東京で芸者としての自分を試したい。よし、花のお江戸で勝負しよう!」
前の東京オリンピックが開催された1964年の春、育子さんは上京する。24歳だった。
