東京・青山劇場が今月、’15年1月をもって閉館する。開館の翌年’86年から30年近く、毎年公演が行われてきたのが、ジャニーズの舞台『PLAYZONE』。少年隊が始めたミュージカルは、ジャニーズの後輩たちの学びの場としても定着している。そこで、少年隊の3人に『PLAYZONE』と青山劇場について語ってもらった。
東山紀之(48)
『PlAYZONE』は僕にとって青春。どうやってトレーニングしようとか、どんな曲をやろうとか、毎年ここを目指して頑張っていたので。初演のときには振付師のマイケル・ピータースに来てもらって1日8時間のレッスンを受けたんです。『PLAYZONE』を始める前は、ショービジネスの面白さや厳しさをまだ実感できていなかった気がしますが、彼の真剣さやすごい感性を目の当たりにして、勉強したことを覚えています。
恥ずかしいことだけど、700回記念の日に足の指を折りましたが、そのままやって精神力が鍛えられたことも。かかとでターンが出来るようになったし、動き続けたのに1ヶ月半の公演が終わるころにはくっつき始めていましたから(笑)。いろんなアクシデントがあって、そのたびに強くなっていくというか、折れた分だけ強くなっていきましたね。
植草克秀(48)
青山劇場は奈落がすごく深くて、初演のころはそれが夢に出てきたことも。落ちちゃったらどうしようって、セリフよりもその危険のほうが怖かった(笑)。23年やらせていただけたことも、すべてにおいて恵まれていて、僕らの財産になっています。後輩たちから学ぶことも多かったし、助けられた部分もたくさんありました。いまも後輩が作品を守ってくれていますしね。青山劇場がなくなってしまうのは残念でならないです。やっぱり僕の中では特別なもので『少年隊PLAYZONE』なんですよ。3人でもう1度、青山劇場に立ってみたかったですね。
錦織一清(49)
青山劇場ができたときに、ジャニーさんと「すごい劇場ができたらしい」と見に行って、すぐに『PLAYZONE』が始まって。’95年には演出もさせていただきました。それまではプランを出したり、助手のようなことをしていたので、演出法はすべてジャニーさんから教わったようなもの。ここ数年で何本か舞台を演出して『PLAYZONE』でやってきたことが役立っていると感じています。
僕はジャニーズでいちばん青山劇場に立っていると思うんだけど(笑)、『蒲田行進曲』で地方をまわって青山に戻ってきたときに、スタッフに「生き生きしていますね」って言われて。客席に見える風景とか、床の硬さに親しみがあって、安心するんだろうね。毎年夏になると戻ってくる、部活のような場所だったと思います。