11月10日、肺炎による心不全のため亡くなった森光子さん(享年92)。10年に降板するまで主演舞台『放浪記』を2017回も続けるという金字塔を打ち立て、女優としては初めて国民栄誉賞を受賞。いっぽうで周囲にはいつも優しさを忘れず、『国民のお母さん』と親しまれてきた。だが彼女がそう呼ばれるまでには、あまりにも多くの苦難があった――。

生まれたのは1920年5月9日。母親は京都・祇園の芸妓で料亭『國の家』を経営していたという。旧制女学校に入学した33年夏、母親が死去。後を追うように父親も同年秋に亡くなっている。「早くにご両親をなくされたこともあったのでしょう。森さんは“家庭”というものに強い憧れを抱いていました」(芸能関係者)

終戦後、歌手として米軍キャンプを周っていた森さんは、日系アメリカ人二世の米兵からプロポーズされ結婚を決意。28歳だった。しかしその一週間後、夫は突然、アメリカに帰国してしまう。そして、そのまま彼女を呼び寄せることはなかった。

58年、大阪・朝日放送の生放送を任されたのをきっかけに、偶然、演出家・菊田一夫の目に止まる。そして、芸術座の舞台『花のれん』に出演することになった。このころ、2度目の夫となる演出家・岡本愛彦氏と出会ったのだ。

翌59年、岡本氏と結婚。2年後の61年には菊田が彼女のために書き降ろした『放浪記』で女優人生初の主演をつとめることになった。だが、皮肉にもそれが夫婦の亀裂を生んだ。63年、森さんは本誌インタビューでこう語っている。「いつでもぎりぎり決着の逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました。俳優という退職金も失業保険もない職業のみじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない」

そんな訴えに対し、岡本氏の意見は違っていた。「岡本は私を責めました。『君は仕事に殺される』、『仕事を半分に減らせ』、『夫の忠告がなぜ聞けないのか!』。私を思っての言葉であることは、わかっていました。でも、それを受け入れることはできませんでした」

結婚より仕事を選んだ森さんは、43歳で再び離婚。「私は、妻の座についていたかった。今でも岡本を愛しています。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないでください』と泣いて頼んだこともありました。でも、結局、破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていくということ」

離婚から3年後の本誌インタビューでは、こう語っている。「私って、結婚の落第生ですものねぇ。別れるのが怖いんです。結局仕事を辞めたくないんです。その気持ちがある限り、必ず相手に不自由や迷惑をかけるでしょう。女が、仕事に人生をかけるということは、友情も、結婚も犠牲にして、いつもひとりぼっちでいなければならないということかしら」

だが、彼女も子どもだけは未練があった。09年5月、彼女は本誌にこう話している。「仕事一筋でやってきましたが、正直なところ、子どもはほしかったですね」

結婚と子どもを諦め、芸道ひと筋に歩み続けてきた。その分、周囲にその愛情を注ぎ続けてきたようだ。79年、交通事故で親を失った子どもたちへ匿名で奨学金を送る「あしながさん」を募集する制度が発表されると、彼女はすぐさま協力を申し出たという。また、芸能界でも俳優やスタッフなど別け隔てなく愛情を注いだ。

そして森さんのまわりには、いつの間にか、彼女を慕う人で溢れるようになっていた。実の母親にはなれなかった彼女が、多くの人から“お母さん”と慕われるようになったのだ。惜しまれながら逝った昭和の大女優。葬儀は12月7日、東京・青山斎場で行われる――。

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