「監督との出会いは、私が25歳のとき。お会いしたら聞きたいことは山ほどありましたけど、監督から開口一番『崔くん、きみは新宿でいちばんケンカが強いんだって? ハッハハハ』と言われて、『もうこの人と話すことはないな』と思いました(笑)」
こう語るのは、今年の1月15日に死去した大島渚監督(享年80)の代表作の一つ『愛のコリーダ』(’76年公開)でチーフ助監督に抜擢され、監督の葬儀では葬儀委員長を務めた崔洋一監督(63)だ。
「『愛のコリーダ』の撮影が終了した当日、監督と酒を酌み交わした際、監督が『おまえ、これからどうするんだ?』と。私が曖昧に答えていると『もう助手はやめろ。俺の助手すらするな。これから俺とおまえは友人だ。主従じゃない』とおっしゃった」
大島監督の素顔に接し、崔監督は驚いたことが多々あったという。『愛のコリーダ』の撮影が終わった翌年の1月2日、初めて大島家の年始に呼ばれたときのこと――。
「新年のご挨拶をして、おせち料理やお酒をいただいていると、監督が大きな声で『おーい、ママ』と。『えっ?』と驚いていると、台所から小山(妻の明子・78)さんが現れて『聞こえているわよ、パパ。もううるさいんだから』とおっしゃった。ひっくり返りそうになったというか、心のなかではひっくり返りましたね(笑)」
2人は、人前では「小山」「大島」と客観的に呼んでいたが、家の中では、昭和のインテリがよく使った「きみ」「あなた」、もしくは「明子さん」「渚さん」と呼び合っているのだろうと思っていた崔監督。2人が平然と「ママ」「パパ」と呼び合っているさまを見て驚いたのだった。
「監督は、表ではある種の狂気をはらんだ先駆者というか、戦うイメージが非常に強い方ですけど、2人の息子にはとても子煩悩で、優しいマイホームパパ。ここ何年かの監督は、何かあれば『ママ、ママ』と言って。監督にとって小山さんがすべてだったと思います」