17日、急性呼吸不全のため亡くなった三國連太郎さん(享年90)の告別式。長男の佐藤浩市(52)は12時半に到着。葬儀は14時から始まり、鈴や木魚の音が静かな別荘地に響き渡った。15時半過ぎには位牌を手にした友子夫人(63)を先頭に白木のお膳を持った佐藤の妻・亜矢子さん(46)、遺影は佐藤の高校2年生の長男が、最後に佐藤が骨壷を持ち、家族揃って自宅から姿を見せた。

「本日、三國連太郎、佐藤政雄(三國さんの本名)両名の葬儀・告別式を無事、執り行うことができました」
 佐藤は深々と頭を下げた。喪主挨拶を聞きながら友子夫人はすすり泣き、佐藤の妻も涙をこらえながら天を仰いだ。佐藤は15日の会見で「僕と彼との間に介在したのは役者という言葉だけ。一般論的な親子ではない。そりゃ、ひどい父だった」と父への複雑な思いを口にした。三國さんとの“父子の確執”は幼い日から芽生えた根深いものだったのだ。

 三國さんは戦中の“婚約者”を含め4度結婚しているが、佐藤は3人目の妻との間に生まれた。売れっ子芸者・敏子さんと同棲の末、57年に入籍。60年に佐藤が誕生した。
だが、三國さんは女優・太地喜和子さん(享年48)との不倫などで世間をにぎわし、数カ月も家をあけることもあった。そしてついに、佐藤が11歳だった72年に離婚。佐藤も高2で家を飛び出す。以降、音信が途絶えていた2人だが、大学生になった佐藤が三國さんに俳優の道に進む決意を告げたとき、父は「おやりになるなら、親子の縁を切りましょう。いっさい、君の芝居は観ません。演技についても何も言いません」と突き放した――。

「晩年、三國さんは『俳優業は歌舞伎のような伝統芸能ではないので継承はできない。教えられるものではないから、自分で探し求めてほしい』という意図だったと話していました。今なら父親の真意も伝わったでしょうが、まだ若い佐藤さんは相当、ショックを受けたようです」(映画関係者)

 佐藤は若き日の三國さんとの父子関係をこう振り返った。
「確かに父の存在が大きな壁のように感じられた時期もありましたし、葛藤がなかったといえば嘘になります」(『婦人公論』13年3月7日号)
 自分と母を捨てた父を恨む気持ちを抱えつつ、同じ役者同士として「父に負けたくない」という競争心もあった。

佐藤は93年に元舞台女優の亜矢子さんと結婚。同年11月の挙式に三國さんも出席し、
「役者はナイーブな職業。かみさんはきついだろうけど、2人で耐えていってほしい」
 と祝福し、男泣きしていた。佐藤と父との関係もこの結婚を境に少しずつ変化を見せる。友子さんと佐藤の妻・亜矢子さんの2人が、父子の距離を近づけていったのだ――。
 
「お金に無頓着だった三國さんを、友子さんは常に陰で支えていました。三國さんは、95年に友子さんを事務所の社長に据え、この年に映画『美味しんぼ』で浩市さんとの父子共演が実現しました。『目の上のたんこぶという言い方がいちばん近い』と三國さんを毛嫌いしていた浩市くんを、『三國さんからの強い希望なんです』と説得したのが、まさに友子さんだったんです。友子さんは亜矢子さんとも連絡し合い、浩市さんを担ぎ出すことができたそうです。共演が決まると、友子さんからせかされるように、三國さんは浩市くんにしょっちゅう電話するようにもなりました」(舞台関係者)

 佐藤の長男が誕生すると、孫の存在が急速に父子のわだかまりを氷解させていく――。
「浩市さんの長男が生まれてから、子供のお誕生日や記念日を、三國さん夫妻も一緒に祝ったりするようになったそうです。そうした際、すべて亜矢子さんから友子さんに連絡が行って、2人で相談しあって決めていたようですよ。孫の運動会をはじめ学校の行事にも、必ず三國さんは奥さんと一緒に姿を見せて、浩市さん夫妻と仲良く談笑する光景も見られるようになりました」(佐藤家の知人)

佐藤の長男が小学校を卒業する09年春には“最後の父子共演”が謝恩会で披露された。
「『親によるアトラクションの時間があって、浩市くんと5分ばかりのお芝居をやったんだ。脚本家を立てて、親子の機微みたいな話を、掛け合いでね』と話していました。
保護者の方々の拍手喝さいに、しきりに照れていたそうです」(前出・佐藤家の知人)

 実はこの時の脚本家は三谷幸喜(51)だった。三國さんの訃報を受け、こう綴っていた。
《何年か前に浩市さんから、息子さんの卒業式の謝恩会で上演する、浩市さんと三國さん共演の朗読劇の台本を頼まれたのだ。浩市さんにしてみれば、ひょっとしたら最後の親子共演になると思っていたのかもしれない》(『朝日新聞』13年4月18日夕刊)

“親子の絆”がテーマというこの最後の共演から、佐藤は父・三國連太郎の“遺志”を感じ取ったのかもしれない。

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