5月23日、サンミュージックプロダクションの創業者で会長の相澤秀禎さんがすい臓がんのため亡くなった。昨年11月から闘病を続けていたという。享年83だった。次々にスターを発掘・育て続けてきた相澤さんだが、そのなかで晩年まで気にかけていたのは、一時は17年もの間、絶縁状態にあった松田聖子(51)のことだった——。
デビューから間もなく『青い珊瑚礁』など次々とヒットを飛ばし、ヘアスタイルも“聖子ちゃんカット”として大人気になった聖子。デビューから2年後の’82年には、初めての日本武道館コンサートも行った。しかし、聖子と相澤さんの蜜月は’89年に終わりを告げる。
聖子をアメリカで本格デビューさせたいというレコード会社の意向に、相澤さんは賛同できなかったのだ。結局、聖子はサンミュージックから独立したが、育ての親を裏切った“ワガママ独立”と批判を浴びることに。このときのことを、相澤さんは後にこう振り返っている。
「アメリカ進出を決断した彼女は、当時、何度も僕に電話をくれていました。けど、僕も若かったんですね。どうしても、その電話に出れませんでした。その後、ひとりになった彼女の、いろんなうわさを聞くにつけ、『せめて、あの時、あの電話に出ていれば……』と悔やみました」(『論座』’08年4月号)
その後、2人の絶縁状態は’06年に聖子が相澤さんをディナーショーに招待するまで17年間にも及んだ。だが、ショーの最中の「今夜、デビュー当時からお世話になってきた事務所の会長さんが、この会場に来てくださいました。会長さんがいたからこそ、私も26年、頑張ることができました」という聖子の挨拶が、相澤さんのわだかまりを氷解させる。
翌’07年、サンミュージックと松田聖子は“18年ぶり”の業務提携を発表。相澤さんは、聖子の歌手としての姿勢を評価し、かつてのような至高の輝きを取り戻させるための再生計画を練り始める。当時、相澤さんはその再生計画を本誌記者に次のように語っていた。
「彼女が提携を提案してきたのは、彼女自身も現状に満足していなくて、打破したいと考えているからだと思うんだ。彼女と再び仕事ができるというのは、僕にとって本当にうれしいこと。もう一度全盛期のように彼女を輝かせたいし、そのためのアイデアもいろいろ考えている」
相澤さんにとって“聖子再生計画”は人生の大きな目標になった。2年前には、「今度、僕と聖子と2人でアルバムを作ろうと考えているんだ」と目を輝かせて語ることもあった。レコード会社や聖子の所属事務所とのかねあいもあったのか、残念ながら相澤さんの願いはなかなか実現せず、逝去により果たせぬ夢となってしまった。