image

 

「具合が悪くなってからサッと逝ってしまって……。周りに心配をかけるのが嫌な人でしたから、苦しいところを見せたくなかったのかな。そういう意味では、お義母さんらしい最期だったのではないでしょうか。光はギリギリ立ち会えたんですが、私もニューヨークの仕事を切り上げて早く戻りたかった……」

 

涙ながらにそう話すのは芸能事務所タイタン社長の太田光代さん(52)。夫で爆笑問題の太田光(51)の母・瑠智子さん(享年83)が、肺気腫による呼吸不全のため、11月8日午前3時58分に亡くなった。

 

瑠智子さんは、2年前の夏に道で転んで骨折をして入院。息子の自宅から15分の介護施設で生活していた。7日に尻もちをついて入院。その後は回復したと見られていたが、未明に急変したという。

 

「お義母さんはサバサバした性格。光もお義母さんも病院嫌いですが、具合が悪かったり痛みがあったりすると、光は『うーっ』とパニックになってしまいますが、お義母さんは骨折をしても自分で包帯を巻いて治す。気合です。自分で何とかする人でした」

 

独身時代は女優を志し、劇団に所属していた時期もあったという瑠智子さん。その後建設会社の社長だった太田三郎さんと結婚。専業主婦として、家族に尽くす人生を選んだ。

 

「時代が時代ならバリバリ社会で働いている人。完璧主義です。必ず肉と魚の両方の料理を作り、家でフルコースを出している感じだったと聞いています。それがおいしくて、お父さんは太ってしまって。仕事で会食があっても、帰宅後、また食べていたみたいです」

 

子育てに関しては寛容だった。内気な性格で友達ができないひとり息子を見守ってきた。

 

「光は要領のいいタイプではないし、人とのコミュニケーションがまったく取れなかった。それでもお母さんは無理やり外に出ろと言わず、そのままでいいんだって。『この子は何をやっても続かなかったけど、やりたいことは自然と出てくる』とそっとしておいたのです」

 

下積み生活時代に合コンで光代さんと出会い、90年に結婚。当初から瑠智子さんに助けられた光代さんは「嫁姑というより、良い先輩、上司といった人でした」と語る。

 

「私が忙しいのをわかっていて、いつも気を遣ってくれる。専業主婦だったのに女の人が働くことがどういうことか、わかっていると感じました」

 

30代から太田と光代さんは不妊治療を開始。1回の治療で月に20日も通院しなければならないハードスケジュール。会社経営と治療の両立は難しく感情も不安定になったという。

 

「光も私もお互い一人っ子で両親のためにも子供が欲しかった。不妊治療をしているとき、お義父さんは会うたびに『子供つくったら?』と言ってきたんですが、お義母さんが『あなたは忙しいんだから無理しなくていいんだよ』って私をフォローしてくれて。子供には恵まれませんでしたが、お義母さんの言葉に気持ちが楽になってどれだけ救われたことか」

 

三郎さんが11年に脳梗塞と心筋梗塞で倒れると、夫の自宅での介護は彼女の仕事になった。12年に三郎さんを見送ったときには、体はボロボロに。老々介護の日々は相当、ハードだったようだ。だが瑠智子さんの毅然とした態度は変わらなかったという。

 

「お義母さんの体が弱ってきたとき『ウチの1階が改装できるので、一緒に住みませんか』って誘ったんです。でもそれはできないって断られました。光が施設に入れることを決められなくてウジウジしていると、お義母さんは自分から『私は施設に入ることに抵抗はないから、どの施設にするか、今後のことは光代さんに一任する』とキッパリおっしゃって」

 

光代さんにとって瑠智子さんは最後までかけがえのない存在だったが、嫁としては満点ではなかったと後悔する。

 

「私に常に言ってくれていたのは、『忙しいのはわかっているから、無理しなくていいよ』ということ。私のことを理解してくれている。実母より大切な人でした」

関連カテゴリー:
関連タグ: