「匡子さんは独学でトレーニング理論を学んでいました。ノートは100冊を超えていたそうです。またマッサージも勉強し、練習後は真央さんの身体のケアもするようになっていました」(フィギュア関係者)
4月12日の会見当日、浅田真央(26)は開始2時間前に都内のホテルへと到着していた。海外メディアを含む430人の報道陣がつめかけるという、今世紀最大級の記者会見。約50分の質疑応答を終えると、彼女は込み上げる涙をこらえながら壇上から去っていった。
そんな彼女の胸に去来したのは、亡き母・匡子さん(享年48)との日々だろう。名古屋市にある実家の近所の住人はこう振り返る。
「真央ちゃんがここまでの存在になれたのは、やっぱりお母さんが一生懸命だったからだと思います。お母さんは毎日、真央ちゃんを車に乗せてリンクや学校へ送迎していました。朝早くから夜遅くまでね。大変だったと思います」
そんな母の姿は、引退決断の陰にもあったようだ。昨年11月、浅田はグランプリシリーズのフランス大会で自己最低となる9位と惨敗。その夜、浅田は母の夢を見たという。
「夢に現れた匡子さんは優しく微笑み、『真央、もういいよ。長い間、お疲れさま』と囁いたそうです。その夢を母の“遺言”と受け取ったのでしょう。真央さんが引退を考え始めたのはこのころからだと思います」(別のフィギュア関係者)
氷上では厳しかった母。だが浅田がいちばん辛いときに優しい言葉をかけるのも、いつも匡子さんだった。それでも「平昌五輪に出場すると宣言して復帰した以上、やめるわけにはいかない」と競技を続けた浅田は、左膝の怪我の影響で力を発揮できず全日本選手権でも12位に。そして2カ月間に及ぶ逡巡の末、ついに現役引退を決意したという。
「引退会見で『言ったことを必ずやり遂げるというポリシーは、誰に教えてもらったの?』と聞かれた真央さんは『やはり母かなと思います』と答えていました。また彼女は旅行に行ったとも明かしていましたが、実は1月にロサンゼルスを訪れたそうです。ここはロスは匡子さんと10年前に長期滞在した地。ジャンプ練習のためお母さんと暮らした日々を、振り返ったのではないでしょうか」(前出・別のフィギュア関係者)