徳島県で生まれた米津玄師(27)は幼少期からコミュニケーションが苦手で、孤独を強く感じていたという。
《小学校高学年ぐらいの時にはもう、居心地の悪さみたいなものを感じていて。その中で編み出したのは、自分の頭の中で架空の人物と話すっていう。(略)…俺はずっと、普通の人になりたかったんですよ》(『ロッキング・オン・ジャパン』15年11月号より)
表現活動として音楽に目覚めたのは小学校高学年だった。中学・高校時代はバンド活動をするも楽しいと思えず、家に籠り、ひとりで音楽を創作するように。
《人と繋がれない部分っていうのは自分の音楽によく還元されていると思う。その当時は不安だとか、怒りだとか、学校生活を送るにあたって色々な感情があって、(略)そういう感覚があったからこそ、今の自分があるんだろうな》(『billboard JAPAN』17年のインタビューより)
そんな彼を献身的に支え続けているのが彼の所属事務所の社長・Aさんだ。音楽関係者は言う。
「米津さんは18歳でニコニコ動画に投稿。自分で書いた詩と曲を架空の歌い手の声で歌わせる“ボーカロイド・プロデューサー”として注目される存在になりました。約6年前、彼の才能に惚れたのが、大手レコード会社の宣伝担当をしていた、まだ20代の彼女でした」
米津の才能をいち早く見抜いたAさんは5年前の春、彼の事務所を設立し、代表取締役に就任。
「そこでまず提案したのは、“ハチ”名義で活動していた彼に本名・米津玄師でのアルバムを制作すること。つまり、彼自らが表舞台に立つことだったそうです。ライブが苦手だった米津さんに生のライブの重要性を訴えたのも彼女だったとか。米津さんも彼女の仕事ぶりに信頼と絆を強めていき、いまでは家族のような存在になったそうです」(前出・音楽関係者)
米津は3年前の7月、《鬱を煩っていたことがあって、その間は最低な生活を送ることが多かった》とブログで告白している。
「精神的に不安定になりがちな彼の心身のバランスをとるのも、彼女の重要な役割だと聞いています」(前出・音楽関係者)
実際、Aさんは米津のサポートに多忙な生活を送っているようだ。11月上旬の某日は、深夜0時前に米津のマンションを訪れていた。11月中旬の某日は夜8時半にマンション内に入り、深夜2時過ぎまで出てくることはなかった。
米津の謎の私生活をどう支えているのか。11月下旬の夕方、本誌は彼が籠るマンションから姿を現したAさんに話を聞いた。
――こちらで米津さんと同居されているんでしょうか。
「そんなことはないです。全くそうした事実はございません」
――先日も深夜までいらっしゃっていたようでした。
「宿泊したことはありませんし、長時間いたこともありません。私は自宅に帰っています。ここは作業場で、あくまで私は彼の音楽が成功できるようマネージメントをする立場なので確認しなければいけないことがあるんです。電話ではできない話もあり、夜中でも確認しに来る場合があるんです」
Aさんの支えなくして、名曲『Lemon』が生まれることはなかった――。