嵐・大野に3度の転機 辞める決意もジャニーさんが慰留続けた

7月19日、嵐の5人が「NHK東京2020オリンピック・パラリンピック放送スペシャルナビゲーター」として五輪関連番組『2020スタジアム』の会見に臨んだ。所属事務所社長・ジャニー喜多川さん(享年87)逝去後の初の公の場だった。リーダー・大野智(38)は逝去翌日にこんなお別れの言葉を贈っていた。

 

《ジャニーさんと出会えたことで僕の人生は大きく変わりました。嵐をつくってくれてありがとう》

 

嵐はジャニーさんがCDデビューさせた20世紀最後のアイドルグループ。99年9月、米国ハワイ州・ホノルル沖の客船上で結成会見。“生みの親”であるジャニーさんも同行していた。嵐は着実に人気と実力を伸ばし、07年4月に初の東京ドーム公演。同年のシングル『Love so sweet』がオリコン年間チャートトップ10入りする大ヒット。以降、男性アイドルの売上げ記録を次々と塗り替えていく。

 

「嵐が国民的な人気となったのは5人のチームワークがあったからこそ。そういう意味では、リーダー・大野さんの役割は大きい。そもそも大野さんを嵐のメンバーとして“大抜擢”したのも、ジャニーさんでした」(前出・音楽関係者)

 

テレビ局関係者もこう証言する。

 

「大野くんはジャニーズに入ってまもなく、2年間ほど舞台出演のために京都に滞在していました。彼の歌唱力の高さを知っていたジャニーさんは、折を見て京都まで見に行っていたんです。ジャニーさんが嵐をデビューさせるにあたり、Jr.のトップだった松本くん、光る演技力を持った二宮くん、知性的な櫻井くん、愛されるキャラクターを持つ相葉くんという東京で活躍していた4人がまず浮かんだそうです。そこに“最後のピース”として白羽の矢をたてたのが大野さんでした」

 

ただ、大野自身は当時、決して芸能活動に積極的ではなかった。『日経エンタテインメント!』09年11月号で赤裸々に語っている。

 

《「辞める」って言ったのは、(デビュー前年の)98年。踊りを究めるために京都の舞台で仕事させてもらっていたんだけど、2年やって自分のなかで究まった感じがしたので、社長に電話したんです。「京都から戻ってきたよ。で、辞める」って。社長も「ああ、そう」ってすんなり言ったんですよ》

 

「じゃあ、とりあえず来て」とジャニーさんに言われ、連れていかれたのが堂本光一(40)の舞台『MASK』の稽古場だったという。

 

「社長は一言、『とりあえず踊っちゃって!』と。大野くんは勢いに押され思わず踊って参加したんです」(前出のテレビ局関係者)

 

だが、大野は再び辞めると宣言。

 

《舞台が終わって3カ月くらいは、仕事の電話がきても断って、ずっと家で絵を描いてた。で、ダラダラやってるのも嫌なんで、また社長に言ったんですよ、「辞める」って。そしたら、「じゃあ、ちょっとレコーディングを手伝ってくれない?」って言われたので、本当に最後の手伝いとして行きました》

 

スタジオで再度、「とりあえず歌っちゃって!」と渡された紙には『嵐』という文字があり、『大野ソロパート』と書かれてあったという。

 

《歌い終わったら「来週、ハワイ行く?」って。いろいろやったお手伝いのご褒美だと思いました》

 

だが、そのハワイは、嵐のデビュー会見の場所だったのだ。

 

《さすがにハワイまで行っちゃってるんで、そこでは辞めるって言えなかった(笑)》

 

前出のテレビ局関係者も言う。

 

「デビュー後、しばらくは爆発的な人気には至りませんでした。大野くんもまたリーダーとして試行錯誤しながらグループの団結力を高めていった感じでした。ツアー中には必ず1度は5人だけで集まって飲んで言いたいことを言い合う場を設けたそうです。その地道な意思疎通がファンの親近感を生み、幅広い人気につながったんです」

 

だが、大野の心には3度、芸能界を離れたいという思いが芽生えた。

 

「実は、結成10周年直前にも、大野くんがメンバーに『辞めたい』と打ち明けたことが。嵐としてやりたいことはやり切ったという“燃え尽き症候群”みたいになったそうですね」(前出・音楽関係者)

 

ジャニーさんは優しく励まし、メンバーも必死に慰留して危機を乗り越え、20周年を迎える人気グループへと成長したのだ――。

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