9月に最終回を迎えた『凪のお暇』は、人気コミックが原作のドラマであったが、原作とドラマの違いとは何だったのだろうか。現在6巻まで出ている原作を読んでみて思ったのは、原作はまだ旅の途中であるが、ドラマは夏に放送されたこともあり、「夏休み」を「お暇」に重ねて描き、それがいつかは「終わる」ということにポイントがあると感じた。
「夏休み」は終わるものである。だいたいのドラマもワンクールで終わるものだからドラマではよく「夏休み」をモラトリアムやいつかは終わるものの象徴として描いたり、終わったときに登場人物が成長しているものになっているということはよくある。ドラマの『凪のお暇』も、「夏休み」=「お暇」が終わるときに、凪(黒木華)をはじめ、登場人物は、何かを見つけて前を向いてあるいていく性格がより濃くなっていたのではないだろうか。
原作漫画はまだ終わってはいないのだが、ドラマは終わるからこそ、凪だけでなく、凪以外の人たちにも同じように「夏休み」の終わりには、何かの変化が訪れることが一話から明確に描かれていたと思う。変化を描くためには、その人の弱点もあからさまに描かれたほうが、視聴者に伝わりやすい。
凪の場合は空気を読みすぎて、同僚に対しても、あわせすぎて関係性がぎくしゃくしていることが描かれていた。彼氏である慎二(高橋一生)にも、思ったことを言えず、自分を偽って接していたが、それだけが自分の切り札だと思っていた。
いっぽうの慎二は、「空気は作るもの」とうそぶき、なんでも卒なくこなし、同僚の男性の間でもマウントをとるようなふりをしていたが、心の中には澱が溜まっているということが描かれていた。だからこそ、慎二は原作よりもとにかくよく泣いていた。
また、凪が引っ越した先で出会うゴン(中村倫也)は、イベントオーガナイザーで、女性関係が激しく、「メンヘラ製造機」と呼ばれていた。誰とでも仲良くなれるオープンマインドだが、人を本気で好きになったことがないという性質でもあった。
原作では、主人公の凪の変化が中心に描かれているし、まだ終わっておらず続いていくものなので慎二もゴンもはっきりとした進路は描かれないが、ドラマでは凪だけでなく、慎二やゴンもどう変化していくかに、きっちり落とし前をつけていた。そのことで最終回を見て、いろんな意味でスッキリした気分になれた。
最終回、凪は取り壊しによってアパートを離れ新たな道を歩んでいく。ゴンは凪に出会ったことで自分にも誰かを本気で向き合う気持ちがあると気づけたし、お隣の緑さんもまた家族との長い確執を乗り越え故郷に向かい、またドラマの中では凪に空気を読ませることを強要する嫌な同僚として描かれた足達さんや、仕事ができるが常に周囲にあざといと思われている恋敵として描かれた市川円が、オフィスのはみだしもの同士として友情が芽生えるかも? というシーンまで用意してくれていて、個人的にはありがたかった。なぜなら、悪役、敵役の駒としてだけ存在しているキャラクターには胸が痛むからだ。そうやって、誰もが「長いお暇」を終え新たな道を歩んでいく。
仲でも特筆すべきは慎二である。ドラマを第1話から見ていると、凪よりもいろいろなものをこじらせて路頭に迷っているのは慎二のほうではないかと思えていたが、慎二もまた「お暇」の期間を過ごしたことで、凪と同じように空気にとらわれている人間であり、壊れる寸前だったことに気付くのである。だからあんなに泣きじゃくっていたのだ。しかし、泣けるということは、自分の感情を無視せず向き合っているという証拠でもある。
泣いて泣いて自分の気持ちに向き合って、慎二も前を向いて歩んでいく結末となったし、最後には凪と慎二は“空気とかそんなの関係なく”純粋に一緒に楽しく過ごすためにデートをすることになる。ここで慎二は心の中を素直にさらけ出して笑いあうこともできたし、最後に凪とハグをするかしないかで小さな言い争いもできるようになっていた。この言い争いのシーンを見て、凪と慎二の間に、よくあるハッピーなラブコメのような、「ケンカしてるけど一番よくわかりあっている」ふたりの空気を感じた。
ふたりは完全に別れ、別々の道を歩む結末にたどり着いたが、ふたりが心の中の膿を出し切って、素で会話できるようになったのであれば、もし偶然に再会しても、恋愛感情のあるなしにこだわらず良い関係が築けるのではないかという気さえした。良い「お暇」の終わりであった。
【PROFILE】
西森路代(にしもり みちよ)
ライター。1972年愛媛県生まれ。大学卒業後、テレビ局でのOL時代を経て上京。編集プロダクション勤務、ラジオディレクターを経てフリーライターに。俳優や監督へのインタビューやテレビ、映画についてのコラムを主に執筆。現在、朝日新聞、TVBros.などで連載を持つ。