ジーンズに赤いニットのセーターという装いで、悄然と歩いていたのは女優・中村玉緒(80)。
本誌が彼女を目撃したのは、長男・鴈龍さん(享年55)の急逝が報じられた翌日の12月4日のこと。息子の墓参に向かおうとしているのだろうか、80歳のその背中はとても小さく見えた。全国紙の社会部記者は言う。
「鴈さんが急性心不全で亡くなったのは11月1日。連絡がとれないことを心配した知人が自宅を訪れたところ、鴈さんの亡きがらを発見したのです。鴈さんは2カ月前から名古屋市で一人暮らしをしていたそうです。いわゆる“孤独死”で、警察は事件性はないとみています」
鴈さんは昭和の大スター・勝新太郎さん(享年65)と人気女優の中村の間に生まれ“芸能界のサラブレッド”として注目されていたこともある。将来のハリウッドでの活躍も視野に入れ、インターナショナルスクールにも通っていたのだ。故・若山富三郎さんの長男で、鴈さんのいとこにあたる俳優の若山騎一郎(55)はこう語る。
「日本公開前のエディ・マーフィ主演の映画『大逆転』のビデオを雄大(鴈さんの本名は奥村雄大)が、アメリカから取り寄せて、いっしょに見たことがありました。字幕がないから僕にはわからないところも多かったけれど、あいつは『このセリフはいい』なんて言っていて格好よかったですよ。叔父ちゃん(勝新太郎)が撮った映画『座頭市』で雄大はデビューしたのですが、うちの親父も彼の演技を褒めていたんです」
父から英才教育を受けていた鴈さんだが、恵まれた俳優人生ではなかった。
「デビュー作の『座頭市』で、撮影中に共演俳優に重傷を負わせ、その後、死亡させてしまうという事件が起きたのです。また’97年に、息子の行く末を心配しながら勝さんが65歳で逝去してしまいました」(舞台関係者)
勝さん亡きあとは、母・中村が、息子を一人前の俳優にしようと尽力を続けた。
「玉緒さんはバラエティ番組で大活躍していましたので、自分の人脈を生かし、バラエティ番組で共演したり、自分が出演する舞台のプロデューサーに頼み込んで、鴈さんにも役をもらってあげたりしていました。ただ、“父の名に恥じないような俳優になりたい”という気持ちが強すぎてプライドも高かったせいか、“使いやすい俳優”ではなかったのです。30代からは体重も100kgを超えるようになり、所属事務所の関係者からダイエットを命じられたこともありました」(前出・舞台関係者)
若山が続ける。
「ものすごく優しい男でナイーブでした。それに“あがり性”だから、なかなかセリフが出てこないこともあって……。人よりお酒を飲んでいたのは、優しすぎる性格のせいもあったと思います」
だが鴈さんが50歳を超えたころ、中村は70代の半ばを迎えており、苦渋の決断を下さざるをえなくなっていた。中村の知人は言う。
「鴈さんは’17年に2年ぶりに舞台に出演しましたが、その後は、これといった仕事もありませんでした。玉緒さんは悩んだようです。しかし『私が面倒をみている限り、あの子が独り立ちすることはないのでは』と考え、長女とも相談したうえで、経済的援助を打ち切ったのです。いわば“絶縁通告”ですが、母として鴈さんに一人前の俳優になってもらいたいという気持ちも強かったのです」
それから2年ほどたったころに、もたらされたのが息子の悲報だったのだ。
「玉緒さんにとっては、22年前の勝さんとの死別以来の大打撃だったと思います。玉緒さんがあれほど望んでいた“独り立ち”を目指して暮らしていた地で、一人きりで亡くなってしまったのですからね……」(前出・中村の知人)
家族だけで鴈さんの葬儀が営まれたのは11月29日。くしくも勝さんの誕生日だった。鴈さんは、勝さんと同じ墓で眠っている。
「雄大は『死んだら親父と同じ墓に入りたい』と、よく言っていました」(若山)
本誌が東京都内の勝さんと鴈さんの墓を訪れると、数多くの花に囲まれ、鴈さんが父から教わって愛飲していたというテキーラ「クエルボ・エスペシャル」のボトル2本が手向けられていた。
“一人前の俳優にしてあげられなくてごめんね”……、ボトルはそんな思いで中村が捧げたものに違いない。
鴈さんは天国で、生涯尊敬し続けていたという父といっしょに、母からもらったテキーラを酌み交わしていることだろう――。