住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に踊りに行ったディスコの話。活躍する同世代の女性と一緒に、“’80年代”を振り返ってみましょう——。
「趣味が多様化した現在と異なり、’80年代は限られた文化を、大勢の人が楽しみ、消費していく時代でした。同じ空間に人が大挙し、同じ音楽で踊って楽しむ——。ディスコブームはその象徴です」
そう話すのは世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(53)。ブームの火付け役となったのが「マハラジャ」だ。
「大阪での1号店オープンを皮切りに、各地で6店舗を展開した後、’84年に東京へ進出。麻布十番という場所は当時、地下鉄が通っておらず、六本木駅から徒歩10分超の距離にあったため、出店には反対意見もあったようです。しかし、マハラジャは男性だけでの入店ができないシステム。駅から店まで長距離なのが幸いし、男性は歩きながら女性をナンパして、同伴相手を探せたようです」
それまでのディスコとは異なり、ゴージャス感を演出したのも、ヒットした要因だという。
「ドレスコードをもうけ、エントランスで“黒服”がチェックしました。学生はマハラジャに行く日、大学に着替えを持っていったものです。そして無事にマハラジャに入店できると、おしゃれ認定されたという優越感に浸れました」
総面積は200坪超もの広大なスペースで、シャンデリアや大理石を用いた内装は、非日常感を味わえるものだった。
「VIPルームには特別なシャンパンなども用意されており、『顔パスで入れる』ことをステータスにしている女性も多くいました。また男性客におごってもらうケースがほとんどで、のちの取材で『当時、財布を持ち歩かなかった』と答える女性も大勢いました」
女性はそのぶん、服や靴、バッグにお金を注ぎ込んだ。一方の男性にとっては、終身雇用が約束された右肩上がりの時代。
「お金の心配をせず、クレジットカードで消費を楽しむ人が多かった。会社によっては経費も使い放題。その代わり夜10時、11時まで必死で残業して『マハラジャ』に繰り出し、深夜2時、3時まで遊んでタクシーで帰る。翌朝は涼しい顔で、普通に出社していました」
それほど多くの日本人を魅了したマハラジャ。
「ジュリアナ東京でも話題となった『お立ち台』を、日本で最初に導入したのはマハラジャという逸話もあります。ダンスフロアで人気だったバナナラマの『ヴィーナス』(’86年)、カバー・ガールズの『ショウ・ミー』(’87年)なども、日本語でカバーされ次々にヒット。マハラジャは文化の発信地でもあったのです」