■「年齢関係なく、光り輝く存在がアイドル」
歌唱力の高さと楽曲のよさはLPの売り上げにも表れた。ほかのアイドルが1ケタにとどまるなか、聖子は常時30万枚前後を記録。’82年1月に松任谷由実(ペンネーム・呉田軽穂)作曲の『赤いスイートピー』を発売すると、同性からの支持も得るようになった。
「あの曲以降、女性ファンが増え、コンサートの観客の男女比は半々くらいになっていきました。歌の力ってすごいですよ」(サンミュージック名誉顧問・福田時雄氏)
当時、アイドルは通過点と捉えられ、一生続けることは不可能だと思われていた。だが、聖子は21歳で新たな価値観を話していた。
《25才でも30才でも、みんなに愛され、光り輝いている存在、それがアイドルだと私はとらえているのね。だから、歌っている間はアイドルでいたい》(『女性セブン』’84年2月2日号)
先輩の渋谷哲平は「当時のアイドルの寿命は2〜3年だった」と語る。
「僕はアイドルと呼ばれることを心のどこかで拒絶していたし、20歳過ぎたらアイドルではないと思っていました。聖子さんは当時、ブリっ子と言われていましたけど、媚びを売ってる風情は全くなかった。アイドルが天職だと思います」
’85年6月に神田正輝(71)と結婚し、翌年に長女・沙也加さんを出産。聖子人気は衰えず、オリコンの連続1位記録を更新し“ママドル”という新しい概念を作った。前出の清水国明も言う。
「年齢を重ねると、芸能人は今までの自分からの脱皮を試みる。すると、逆にいい面が消えてしまう。聖子ちゃんは自分の役割をわかっていてアイドルでいることを辞めない。現実世界と並行して、松田聖子の世界というパラレルワールドを生きているんじゃないかな」