■「その光景と悔しさは今も忘れません」
’15年8月に本誌に登場した宝田さんは、自らの壮絶な体験談を語ってくれた。
宝田さんは小学校高学年でハルビンの軍隊の内務班に配属され、関東軍の精鋭とともに寝起きしていたという。軍事教練を受ける日々を過ごし、「殴られ、蹴られるのは当たり前。口をついて出てくるのは軍歌で、見るのも戦意高揚の映画のみ」と述懐していた。
戦局は悪化の一途をたどり、8月6に広島、9日には長崎に原爆が投下されたことをラジオで知る。そして終戦を迎えた15日。天皇陛下の玉音放送を聞いた時の心境を、宝田さんは「私たち子供も内臓をえぐられるような思いだった」と語っていた。
しかし、悪夢が襲ったのはその後だった。日ソ中立条約を破棄したソ連軍が、宝田さんら日本人が暮らす街にも侵攻してきたのだ。
宝田さんは「学校や病院はすべて閉鎖され、ソ連軍の略奪や婦女子への陵辱が始まりました」語り、目の前で起きた“拉致事件”を振り返った。
「女性はみな坊主頭にし、なるべく家にいるようにしていたのですが、あるとき1人の女性が捕まり、連れていかれました。私たちはソ連の憲兵を呼んで駆けつけましたが、すでに……。その光景と悔しさは今も忘れません」
宝田さん自身も強制使役で石炭運びをしていた際に、ソ連兵から腹部を銃撃された経験を持つ。元軍医の男性による手術を受けたが、麻酔もメスもなく、裁ちバサミで銃弾を取り出してもらうことに。
ようやく一命を取り留めたが、「いまでも、天気が悪くなる前にはその傷が疼く……」と、唇をかんでいた。そして、こう訴えたのだった。
「非戦闘員である私たちが、そのような目に遭ったんです。『ソ連兵憎し』という憎悪は、その国全体をも否定させてしまう。これが戦争なのです」
日本に帰国後は、ロシアの大作曲家や文豪が生み出した作品であっても、素直に楽しむ気持ちにはなれなかったという。
激動の時代を生き抜き、平和を願い続けた宝田さん。その思いが後世にも受け継がれていくことを願いたい。