山口百恵さん“スターになっても驕るな”弔問にも駆けつけた亡き恩人マネジャーの教え
画像を見る 引退コンサート終盤の百恵さん

 

■百恵さんが売れてもうれしそうな顔をしなかった

 

その後、『百恵ちゃん祭り』は毎夏の恒例となり、百恵さんが引退する’80年まで開催された。

 

「最初のときの彼女は、どこにでもいそうなかわいいコという感じで、特別に輝きがあるとは思っていなかったんですよ。ただ、毎年やっていくなかで、1年目は僕が言うとおりにやっていたのに、翌年からは『こっちのほうがいいんじゃないですか』なんて、提案をするようになって。どんどん輝いてくるので、本当に驚きましたね」

 

代表曲の一つ『横須賀ストーリー』(’76年)ができたときの彼女の様子を、宮下さんはよく覚えているという。

 

「僕にうれしそうに報告してくれましたよ。『宮さん、すごい歌ができたから絶対に聴いて!』って」

 

この曲は百恵さん本人が阿木燿子&宇崎竜童夫妻に作詞作曲を希望したもの。そのことについて宇崎は過去に本誌にこう語っている。

 

《当時17歳ですよ。セルフプロデュース力がただ者ではない。提案をレコード会社に伝えたチーフマネージャーの小田信吾さんもすごい。普通のスタッフなら受け流しますよ(笑)》

 

小田さんがしっかりと百恵さんの言葉に耳を傾けていたからこそ、あの名曲が生まれたのだ。

 

小田さんの人柄を宮下さんはこう懐かしむ。

 

「すごくシャイな人で、百恵ちゃんが売れても『ああそう、よかったな』って感じでうれしそうな顔ひとつしませんでしたよ。『百恵ちゃん祭り』が成功しても、ちょっと右手を上げて『ご苦労さん』って。それが褒め言葉だったんでしょう。

 

それでもマネージャーとしてあらゆる問題をきっちり処理して、だからこそ百恵ちゃんやみんなから信頼されていたんです。変に入れ込まず、顔に出さず、あれだけ真摯に仕事ができるんだから、本当にすごい人でしたよ」

 

表には出さなくとも、小田さんが百恵さんを大切にしていたのがわかる逸話がある。

 

「百恵ちゃんがどんどん世間からクローズアップされて、大スターになる時代が来るわけです。そのころに新宿コマ劇場側から『もうタイトルの“百恵ちゃん祭り”をやめたほうがいいんじゃないか』という話が出たんです。『いまやもう“百恵さん”でしょう。だから“山口百恵さん○○”みたいなタイトルに変えましょう』と。

 

それに頑強に反対したのが小田さんでした。『絶対に“百恵ちゃん”でいく。百恵ちゃんはいつまでたっても百恵ちゃんでいいんだ。みんなから好かれる百恵ちゃん、これでいくから』と一歩も引かなかったのをよく覚えています。

 

そこに小田さんなりの哲学を感じますね。『山口百恵はみんなから愛されるアイドルでいてほしい。みんながずっと百恵ちゃんと呼べる存在でいてほしい』って。彼女に対して、『どんなに大スターになっても決して驕るな』と伝えたい気持ちもあったんじゃないでしょうか」

 

百恵さんは’80年に引退、結婚。

 

「百恵ちゃんが引退したときの小田さんの気持ちは一度も聞いたことがありません。やっぱりショックだったんじゃないかと思うんですけれどね。でも、そういうことは決して話さない人でした。

 

百恵ちゃんは引退後もずっと“山口百恵”に関する許可のやりとりは、小田さんにパイプ役になってもらっていたんですよね。

 

僕も本物のプロのマネージャーと仕事できて、山口百恵という時代を表す人とも出会えた。本当に“ありがとう”と伝えたいです」

 

“芸能界の父”の遺命を守るかのように、引退後も百恵さんは驕ることなく、専業主婦として堅実に夫・三浦友和(70)を支え続けた。“百恵ちゃん”の生き方そのものが伝説となったことを天国の小田さんは誇らしく思っているはずだ。

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