永作博美 実家のイチゴ農園を再建していた!東日本大震災の風評被害で売上激減
画像を見る 22年12月、本誌は高橋克典の朝ドラ収録現場に密着

 

■東日本大震災から半年、行方市をPRする「なめがた大使」に

 

永作は4世帯が同居する茨城県内のイチゴ栽培農家に生まれた。

 

「祖父母の代で農園を広げ、地元では有数の規模だと聞いています。幼少期から家の手伝いをして家業の大変さは身に染みるほど知っているはずです。彼女は専門学校に通うため上京し、19歳のときにアイドルとしてデビューしました。テレビ番組で両親の家業を聞かれると『イチゴ農園』とは言わずに『ストロベリーファーム』と呼ぶなど家業へのこだわりがあったといいます」

 

そんな実家を襲った悲劇――。それが、’11年3月の東日本大震災だった。本誌も当時、永作の実家のピンチを報じている。

 

「被災地に近いというだけで農作物が放射性物質に汚染されているという風評被害に遭ったんです。その影響で売り上げは激減。イチゴ狩りも中止になりました。永作さんの実家は70メートルの巨大ハウスが並ぶような広大農園ですから、当時の被害額は莫大なものでした」(地元紙記者)

 

実家および地元の窮地を受け、実は永作は立ち上がっていた。東日本大震災から半年、出身地である行方市をPRする「なめがた大使」に選ばれ、多忙な女優業の傍ら、地元の広報活動に注力していったのだ。

 

「永作さんは“実家のために自分に何ができるだろう”と大いに悩んだそうです。大使になった永作さんは直後に広報紙に登場して行方市の市長と対談したのです」(前出・地元紙記者)

 

地元の広報紙で、永作は風評被害に苦しむ地域住民に対して、こうメッセージを送っていた。

 

《災害に関しては起きてしまったことなので、心が折れないように踏ん張っていくしかないのかなと思っています。ことが大きすぎてわたしがなにか言うのもおこがましい気がするのですが、ほんとうに自分を強く持って頑張ってほしいと思います》(『市報なめがた』’11年10月号)

 

もちろん、実家への強い思いも込められていたはずだ。永作は’14年にも広報紙に登場して、

 

《茨城県産(の食材)をいっぱい食べています。スーパーに行って産地名を確認するようになりました。茨城産や行方産は結構多いですよ》(『市報なめがた』’14年10月号)

 

と、地元への愛情を熱く訴えていた。

 

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