■挨拶できていなかったことが胸に引っかかっていた
羽生はオーサー氏の指導のもと五輪2連覇を成し遂げた。喜びも苦難も共にした仲だが、’20年にコロナ禍で羽生が急きょ日本に帰ることになって以来、離れ離れに。羽生はそのまま仙台で練習を続け、リモートでオーサー氏とやりとりをしながら、’22年2月の北京五輪を迎えた。
「北京五輪までの2年間を1人で練習したことで、北京五輪も1人で挑みたいという気持ちが羽生さんに生まれたようです。オーサー氏には『1人でやります』と伝えたといい、3度目の五輪はコーチなしで挑みました」(前出・フィギュア関係者)
その後、’22年7月にプロ転向。
「コロナ禍のためになし崩し的に独り立ちをすることになり、そのままプロになってしまったため、きちんとオーサー氏に挨拶できていなかったことが羽生さんの胸に引っかかっていたようです。 プロ転向後、単独ショーなど多忙の日々が続いていましたが、今回ようやく一段落してカナダに向かうことができたのでしょう。羽生さんがわざわざカナダまで挨拶に来てくれたことに、オーサー氏も感激していたようです。
拠点を仙台と決めた彼にカナダという練習場所はもう必要ありません。今回の渡航で、第二の故郷と恩師に気持ちよくお別れをして、リスタートできたのではないでしょうか」(前出・スポーツ紙記者)
5月2日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)の特番に出演した羽生は将来の夢を語っている。
「これからの世代の子たちが『滑りたいな』って思うときに滑れる環境だったり、フィギュアスケートが気持ちよくできるスケートリンクをいつかはつくるお手伝いはしたいなって思う」
思い描くのは、自分が思う存分スケートに打ち込めたトロントのリンクのようなイメージだろうか。涙の決別を経て、新たな目標へ向けて羽生は大きく飛び立つ。