■『比叡山への憧れ』なるコラムも書いて
すでに家族のために出家の儀式「得度」を受けた歌舞伎役者がいる。市川團十郎(45)だ。
「海老蔵時代の’16年、屋号『成田屋』の由来となった成田山新勝寺で『生まれ変わる』と言って得度したのです。当時、乳がんを患っていた麻央さんの闘病のため、『自分に鞭を入れる意味で受けた』と話していました」(團十郎の知人)
猿之助は幼少期から仏教への関心があった。亡くなった母・延子さんはかつてこう語っていた。
《子供ってたいていデパートのおもちゃ売り場に行きたがるのに、あの子はね小さいときから『ねえお母さん、仏壇屋さんに連れていって』と言うて、お店で『僕このお厨子が欲しいな』って言う子でしたわ》(『SAY』’93年4月号)
長じて、猿之助の仏教への情熱はさらに高まっていった。
「猿之助さんの歴史や骨董好きは有名ですが、私の誕生日が伊勢湾台風の上陸日だと話したら、伊勢市内で倒木整理作業中に発見された線刻阿弥陀三尊来迎鏡像という遺物の話を熱心にしていました」(猿之助の知人)
猿之助は’03年に比叡山延暦寺初の歌舞伎上演『比叡山薪歌舞伎』に出演。以後、定期的に比叡山に足を運ぶようになった。
「’16年には比叡山で命がけの荒行『千日回峰行』を成し遂げた僧侶との対談本も出版。同年、大津市内の延暦寺会館で開かれた『比叡山仏教文化講座』では約430人の聴衆の前で講演しています。猿之助さんいわく、天台宗の特徴は『誰もが仏になれ、自分が悟りを開けば他人を救うように説いていることではないか』と語っていました。当時、連載していた新聞に『比叡山への憧れ』なるコラムも書いています」(地元紙記者)
仏教への傾倒は、瀬戸内寂聴さん(享年99)との対談でも明らかだ。寂聴さんから歌舞伎で同じ台本を何度も繰り返し演じて退屈しないかと問われた猿之助は、こう答えている。
《退屈することもあります。嫌になるときもあります。私は仏教の修行の経験はありませんが、ちょっと比叡山の千日回峰行に近いところがある。一旦始めたら、止めるときは命を絶つときだ、という。まさに難行苦行です》(『the寂聴』’10年9月15日発行)
座頭公演を投げ出した猿之助はやはり死ぬ覚悟だったのか――。