■初代市川段四郎が眠るお寺に地蔵菩薩を奉納したことも
’20年、猿之助は「没後1千200年 最澄の足跡」というインタビューで、天台宗の開祖である最澄について、こう語っていた。
《かく言う私は、何を隠そう最澄さんの大ファンである。どれくらいファンかというと、不遜ながら、最澄さんその人になってしまいたいくらいにファンである(中略)。だから、ついつい出過ぎてしまいそうな時には、いつも最澄さんの生き方を思い出すように心掛けている》(『毎日新聞』’20年11月28日号)
翌年、延暦寺で行われた1千200回忌法要では最澄の「聖句」を朗読していた猿之助。当時、“出すぎてしまう”自覚が本人にあったのか。前出の歌舞伎関係者は言う。
「猿之助さんはもともと“俺は亀治郎のままでいい”と言っていたほど、名跡には興味がなく、ガツガツしていませんでした。それが猿之助を襲名してからは、テレビでも饒舌になり、上品さを感じなくなりました。私はそれを心配して、本人にも『亀治郎時代のほうがよかった』と言ったことがあるんです。本人は『そう?』と首をかしげていましたが、猿之助になったプレッシャーは強く感じていたことでしょう」
父・段四郎さんは四代目だったが、初代市川段四郎の墓は都内の正源寺にある。本堂にまつられている地蔵菩薩は猿之助が奉納したものだという。住職に話を聞いた。
――猿之助さんはこちらに墓参されていましたか。
「たまにですかね。初代のお墓があるので、いらっしゃってました」
――事件についてどうお感じになりましたか。
「いや、本当にショックですよ。なんでこんなことになってしまったんでしょう……。またいつかいらしたら、いろいろとお話ししたいですね。なぜこんなことを……」
いまだ心の整理がついていないようだった。
「猿之助さんは元来、信心深い方でした。比叡山で修行し、残りの人生、悔い改めることが両親へのせめてもの罪滅ぼしなのではないでしょうか」(前出・歌舞伎関係者)
最澄の教えに「一燈照隅」という言葉がある。最澄が唐から持ち帰った言葉だ。最初は一隅を照らすような小さな灯火でも、その灯火が増えれば、国中を明るく照らすことができる。個々人が自分の置かれている環境で精いっぱい努力することが組織全体では最も大切だという教えだ。猿之助は出家により歌舞伎界の未来を照らすことができるのか。