初代は破門、三代目の反骨心が生んだ「スーパー歌舞伎」…猿之助4代150年の明と暗
画像を見る 『スーパー歌舞伎』を生んだ三代目猿之助

 

■初代は市川宗家に無断で『勧進帳』を演じたことにより、破門された

 

《猿之助という名は初代から百四十年間一日も劇界から絶えたことがない。その名前を継いでほしいー。大切な想いを伯父(二代目猿翁=三代目猿之助)から告げられ(中略)、「わかりました」と返事をしました》(『文藝春秋』2012年7月号)

 

四代目がこう語ったように、人気俳優「市川猿之助」の名は途絶えることなく連綿と続いてきた。だが400年余の歴史がある歌舞伎界では、むしろ新しい名跡であり、新興で傍流ーそれが猿之助、そして澤瀉屋の歌舞伎界での長年の立ち位置だった。

 

初代猿之助の父は幕末、「立師(たてし)」として名をはせた人物だ。

 

「坂東三太郎の名で役者の立廻りを振り付ける名人。とはいえ四代目坂東三津五郎の門弟でいわば大部屋俳優でした。その息子の名前が喜熨斗亀次郎。四代目猿之助の以前の名『亀治郎』はそこからきたもの。亀次郎は九代目市川團十郎の弟子になり、初代市川猿之助を名乗りました。これが澤瀉屋の起源です」(犬丸さん)

 

しかし傍流ゆえ、なかなか“いい役”を勤めることもままならなかった。そこで活路を見いだしたのが團十郎らの立つ大舞台ではなく、自由のきく小規模公演だった。

 

「血気盛んな人だったのか、自分の芸に自信があったのか、その小さな舞台で、無断で市川宗家のお家芸『勧進帳』を演った。これが團十郎の逆鱗にふれ、破門されてしまったのです」(犬丸さん)

 

旅興行などで辛酸をなめ続け、ようやく宗家の許しを得て破門を解かれたのは16年後。

 

その後、初代は明治・大正の劇界で長老として重きを成すようになり、1910年に二代目市川段四郎を襲名した。

 

「『段四郎』の初代は、もとは『段十郎』と書いた團十郎の高弟です。今でも上演される新歌舞伎の名作に坪内逍遥作の『桐一葉』があります。シェイクスピアの翻訳も手掛けた坪内は難解な言葉を使う作家で、初演に加わった初代猿之助は最初、脚本が読めず苦労しました。そこで『これからは役者にも学が必要だ』と、長男・政泰(初代市川團子)を、いまの高等学校にあたる旧制中学校に入学させたのです。当時の歌舞伎界にあっては異例中の異例で、團子は“学校に通った最初の役者”といわれています」(犬丸さん)

 

家格や門閥という因習にあらがうため、前例のないことにも果敢に挑む、それが澤瀉屋の精神だった。そして、この初代團子が二代目として猿之助の名を受け継いだ。

 

「二代目猿之助という人は、歌舞伎に新風を吹き込んだ、その元祖といえる人でした」

 

こう語るのは、エッセイストの関容子さん。実際に二代目の芝居を見たことがあるという関さんは「大好きな役者だった」と顔をほころばせる。

 

「元気潑剌、ちゃめっ気たっぷり。それでいて品格があり、『黒塚』などは本当に芸術性が高かったですよ」

 

二代目は、欧米で演劇を学び帰国した市川左團次が主宰する「自由劇場」にも参加。1919年には自らも海を渡った。

 

「海外のオペラやバレエの舞台を見て、大いに刺激を受けた。そしてロシアンバレエを自分の舞踊に取り入れたのです。とにかく革新的な人で、当時は『劇界の新人』と呼ばれるほど、尖った感性の持ち主でした」(犬丸さん)

 

こうして作り上げた演目の1つが傑作と名高い、『黒塚』だ。戦後も中国やソ連での公演を実施するなど幅広く活動。53年間にわたって猿之助を名乗り続けた二代目は、その名を高めていった。

 

この二代目が寵愛したのが長孫・政彦(83・三代目市川團子)だった。二代目は孫に自分の芸のすべてを教え込んでいく。

 

二代目以降、澤瀉屋の家風として“学業を大事にすること”が加わった。三代目團子は慶應大学を卒業した翌年の’63年、三代目市川猿之助を襲名。同時に二代目は初代市川猿翁と名を改めた。

 

三代目が新しい歴史を始めようとした矢先、澤瀉屋は悲劇に襲われる。襲名披露の翌月には猿翁となった祖父が、さらに同年11月には父・三代目市川段四郎が相次いで他界してしまったのだ。

 

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