■一門の壁を越えたネットワークを築いた四代目
「四代目は子供のときから芝居好きの火の玉小僧だったそうです。小学校2年生で臨んだ初舞台でも、難しい所作事を堂々とこなしてみせ、客たちも皆『末恐ろしい』と舌を巻いたものです」
エッセイストの関容子さんは少年時代の四代目市川猿之助(47)をこう評した。また演劇評論家の犬丸治さんも「若いころの潑剌とした芝居が印象に残っている」と話す。
「亀治郎時代、三代目のスーパー歌舞伎にもずいぶん出ていたし、京都で毎年開いていた『亀治郎の会』というのも見てきました。イキイキと舞台に立っていましたね。当時から『この先、伸びていく俳優だな』と思っていました」
二代目市川亀治郎の名で初舞台に立ってから29年後の2012年、かつての歌舞伎大好き少年は大名跡となった市川猿之助、その四代目を継いだ。
「三代目の作品をさらに一段高めることを目指し、『スーパー歌舞伎II』を始めたのです。佐々木蔵之介や福士誠治など、歌舞伎界以外の俳優を起用したのには目を見張りました。『三代目に負けず劣らず、プロデュース能力も高いな』と感心しました」(犬丸さん)
さらに澤瀉屋らしく、因習を打ち破る反骨心も持ち合わせていたようだ。
「かつての歌舞伎界には“一門の壁”というものがありました。『あの家の芝居には出ない』みたいな目に見えない確執があったのです。それを崩したのも四代目の功績だったと思います」(犬丸さん)
犬丸さんは、「まるでサーカスだ」と揶揄された宙乗りなどのけれんを市川宗家、いまの十三代目市川團十郎までもが取り入れたことに注目する。
「それは何よりお客にウケたからですよね。宗家まで取り入れたとなると、誰も邪道だとは言わなくなります。そして、けれんの経験豊富な澤瀉屋の四代目の知見を皆が必要としました。
さらに四代目は自分が演出するスーパー歌舞伎IIなどに、各家の御曹司たちを呼んできては大役を振った。そうやって一門の壁を越えたネットワークを築いていったのです」(犬丸さん)
ついに猿之助は四代目にして、歌舞伎界に確固たる立ち位置を築いたはずだったのだが……。襲名時に出版した自著『僕は、亀治郎でした。』(集英社)で彼は次のようにつづっている。
《今年の4月・5月、演舞場での「オグリ」再演の舞台を観たその時から私の闇の心に一筋の光が刺したのである(中略)それが澤瀉屋の─地球の熱より熱く燃え盛る─魂である》
自著以外でも四代目はたびたび「澤瀉屋のDNA」「遺伝子」という言葉を好んで使っていた。三代目の“世紀の恋”がなかったなら四代目を受け継いだのはいとこ・香川照之だったはず、という思いもあったのだろうか。
歌舞伎界の傍流の澤瀉屋、さらにその澤瀉屋の傍流だった自分……。だからこそ彼は「澤瀉屋の魂」「DNA」を意識し、強調していたのではないか。
「四代目は完璧主義であるばかりではなく、澤瀉屋を率いているということに高いプライドを持っていました。それが自分のことが報道されることを知ったとき、“澤瀉屋の看板に泥を塗ってしまった”と、耐えきれなくなってしまったのかもしれません」(澤瀉屋出身俳優)
関さんは今回の事件で帰らぬ人となってしまった四代目の母・延子さんとのやりとりを、いまも鮮明に記憶していた。
「四代目がまだ子供だったころのお話を伺いました。『駅のホームでタッタッタッとまるで弁慶のように六方を踏んで。道を歩くのも踊りながらで、本当に困った子でした』と話しながらも、うれしそうだった延子さんのお顔は、いまも忘れられません」