■「侠気があって、カッコよくって…」涙ぐみながら父を讃える場面も
しかし、歌手を志したのは「ただ歌が好きだから」という気持ちだけではない。実は、敬光さんを助けたいという思いが隠されていたのだ。本誌’01年12月18日号で、八代さんはこう語っている。
《父は運送会社をしていましたが、電話で『手形が不渡りだ』と話していたり、夜中に電話がかかってくれば運転手さんが事故かと心配したりと苦労していました。いちばん深刻なのは月末のお給料日。あてにしていたお金が入らず『困った。でも、運転手さんたちのほうが困る』と言う父を見て、早く大人になって父を助けたいって思いました》
中学卒業後、地元のキャバレーで歌い始めたものの、八代さんの堅実な人生を望んでいた敬光さんは「そんな不良はいらない!」と勘当。それでも八代さんは「歌手になって稼いで、お父さんを支えたい」という一心で上京し、働いて学費を稼ぎながら音楽学校に通うことに。その様子を敬光さんは、遠く離れた郷里から見守ってくれたという。
そして上京から6年後にデビューを果たしたものの、思わぬアクシデントがーー。前出の本誌’01年12月18日号では、こんなエピソードを語っている。
《上京して、やっとレコードが出た時、売り上げをマネージャーが持ち逃げしたことがありました。2千枚分の代金と100万円の借金が残って、貯金もない。その時、父が借金の肩代わりをしてくれたんです。父だって会社が大変なのに》
そう話した八代さんは、涙ぐみながら《侠気(おとこぎ)があって、カッコよくて、頼れて真っ直ぐな人でした。本当にすごい人でした》と敬光さんを讃えていた。
「敬光さんは八代さんの『歌手として成功する』という夢をそばで支えたいと思い、運送会社を畳み東京で仕事をすることに。そして『なみだ恋』が120万枚の大ヒットになると大喜び。街で八代さんの曲を流しているお店を見つけると、敬光さんは最後まで聴いたあと、そのお店にお辞儀していたそうです。敬光さんは’91年に亡くなりましたが、八代さんはずっと敬光さんの写真を集めたアルバムを『宝物』と呼んで大切にしていました」(前出・音楽関係者)
50年にわたる歌手生活を送ってきた八代さん。天国では敬光さんに、その思い出を語っていることだろう。