風のように、雨のように、そして日差しの様に、りりィの歌声は我々の心に響いてくる。今や女優として日本映画界にはなくてはならない存在になっているリリィ。そんな彼女が、今、1999年から新たなユニットで“歌うこと”を始めている。彼女の過去から今へいたる“歌の道”を聞いた。(インタビュー/鈴木利宗 撮影/桑原 靖)[E:note]生年月日とご出身は。りりィ 1952年2月17日です。生まれは福岡の博多ですが、小学校3年生で親の仕事の関係で東京に出て来てしまったので、博多時代の記憶はほとんどないですね。九州弁ももう使えませんから。[E:note]ご家族の仕事の関係ですか。りりィ 父はいないので、母の関係です。[E:note]お母様はご健在ですか。りりィ いや、とっくに亡くなりました。がんですね。そのころは、致命傷でした。私がデビューする前、17歳のときに亡くなりましたから、何年になるのかな。[E:note]何人兄弟ですか。りりィ 4歳上の兄がいましたが、兄も他界しました。[E:note]もともと音楽をやろうとしたきっかけはなんでしょうか。りりィ なんだろう。真剣に音楽をやろうとか、まだ一度も思ってないんですよ(笑)。だから、なりゆきみたいな感じですね。小さいころは、母親が私を歌手とか女優とか、そういう方向に進ませたかったんですよ。自分ができなかったことを子に託すというのは、よくあるでしょう。あのパターン。小さいころからそんな芸事をさせられていたから、いつの間にか…。小学生のころは詩を書くのが好きで、ポエムというか、歌詞ですね。曲はそのころはまだ作れなかったんですけど、歌詞の1番、2番とか、そんなことが好きで。“母も私が歌っていると喜ぶし”という感じだったんですけど、私自身は別に歌手になりたいとか、そういうことは全然なくて。[E:note]お母様ご自身は、歌うことが好きだったんでしょうか。りりィ 女優になりたかったんです。でも、叶わなかったので私を……という感じです。昔の女優さんというのは歌も歌わなければいけないし、踊りも踊れなきゃいけないし。そういうのがあったみたいでね。[E:note]お兄さんを歌手にしようとかは思われなかったんでしょうか。りりィ どうでしょう。私はわかりませんねえ。[E:note]小学生のころ詩を書くのがお好きだったというのは、何かに影響を受けたんでしょうか。好きでよく聴いていた音楽とかありましたか?りりィ そういうのじゃないですね。なんだろう、私もよくわからないですけど。音楽じゃないですね。言葉の遊びというのかしら。そのころは、まだ自分の中にメロディーというものはないんですよ。でも、歌詞がある。ちょっと不思議なんですけど。小学生時代に流行った音楽は全然覚えていませんが、中学に入ると、フランスの音楽とかが流行っていたんですね。シルビーバルタンとか、そんな時代でしたね。中学1年ぐらいだったと思うんですけど。そのあたりから覚えているんですよ。それで、中学3年生のときに友達のお兄さんからギターを教えてもらって、フォークというものをやり始めたのね。ギターを覚えるためには、あのころは歌がついてないといけないんですよ。『500マイル』とか、歌わないとバスができないので、そのバスのギターを覚えようとしていたから。それで、歌い出すんですよね。[E:note]日本の音楽には、興味がありましたか?りりィ いいえ。だから、シルビーバルタンとか、とりあえず、名前を忘れたけど、『そよ風に乗って』という曲があって、その2曲は覚えていますねえ。何がどのころに流行ったかというのは、どうも不確かです。でも、ビートルズ世代ではないんですよ。もう少し上の年齢の人たちのほうが、ビートルズはわかるんですね。私ももちろん聴いていますけど、それで育ったわけではありません。[E:note]中学を卒業した後はどういう感じでしたか。高校生時代は……。りりィ 学校はとても嫌でした。それから、もうひとりで暮らしていましたね。母親が「箱根に移りたい」と言ったので、「私は嫌だから」と言って。[E:note]15歳でひとり暮らし。生活費はどうされたんですか。りりィ 少しは母親がだしてくれて、あとは、そこら辺から歌って稼いでいましたね。[E:note]それは、デビューではなくて。りりィ そうではなくて、年をごまかして。[E:note]クラブで歌っていたんですか。りりィ いや、スナックみたいなところ。弾き語りというのは珍しかったんで。口コミで伝えてもらってね。[E:note]東京のどの辺りですか。りりィ 新宿界隈ですね。店は覚えていませんが、ゴールデン街です。四谷に住んだりしていましたけど。よく遊ぶところでしたね、ゴールデン街は。[E:note]15歳でひとり暮らしを始めて、ゴールデン街で遊んでいたんですか。りりィ そうですね。アハハ。