[E:note]『私は泣いています』をお作りになったころの心境は。りりィ それを聞かれると一番困りますが(笑)。私の場合、詩を書くのは経験というよりも物語なんですよ。だから、『私は泣いています』も物語です。本当はたまたま英語のブルースを作っていたんです。『アンクライングオンザベッド』というね。ブルースって、まず2回繰り返すんです。その英語のほうは面白くなくて乗らないんですよ。それを直訳して遊んでいたら、「面白いじゃない」ということになって、それでバーッと、ほんと5分ぐらいでできたんですね。だから、「私にしては歌謡曲を作った」みたいな気分で。「こんな歌謡曲チックなものができたんだけど、誰か歌う人はいないかしら」と最初は思っていたんです。そしたら、自分で歌うことになって。 [E:note]ゴールデンベストのころは。りりィ ちょうど20歳です。『たまねぎ』の中に入っているジョイントです。[E:note]いま、レコードは東芝さんですか。りりィ いまは個人です。会社とかでやるのは嫌だから、苦しくても個人です。でも、いまはりりィとしてはほとんどやっていません。リリィ-洋士というユニットで曲を作ったりしていますから。そういう意味では、10年前から組んでやっているんですけど、なかなか売れません。ウフフ。[E:note]1997年ですか。りりィ 1997年ぐらいから徐々に……。[E:note]洋士さんは、お幾つですか。りりィ 30年生まれなので、いま52歳ですかね。[E:note]ご主人ですか。りりィ 主人ではないですけど、一緒に暮らしています。私たちはツィンボーカルといって、彼も歌って、私もメイン取って、彼もメイン取ってという感じでやっていますね。[E:note]公私にわたるパートナーですか。りりィ そうですね。[E:note]では、りりィさんのボーカルの曲があって、洋士さんのボーカルの曲があるという。りりィ そうです。[E:note]洋士さんも、もともと歌い手さんですね。りりィ そうです。やっぱり弾き語りを自分でしていて。知り合ったきっかけは、ある大きなユニットに、私とヨージと、もうひとり、3人がボーカルでそこに入っていたんです。でも空中分解して。私もバンドで歌うのにすごく疲れていて、ギター1本とか、アコースティックで歌っていきたいなと思っていたので、最初はその手伝いをしてもらっていたんですよ。そのうちにハモとかがすごく評判よくなって、「じゃあツィンボーカルでやってみましょうか」ということになって組んだんですけどね。[E:note]呼び方は、りりィ&ヨージとか。りりィ そこら辺は、ちゃんと決まってないんですけど。私たちは、りりィヨージと言っています。まあ、呼びにくい人は「アンド」をつけてもらっても結構です。[E:note]ライブのときに自己紹介するときは、りりィヨージですか。りりィ そうですね。『私が泣いています』が大ヒットして、レコードをたくさん出していたころからLily-Yojiにたどり着くまでの間はどう過ごされたんですか?りりィ まあ5~6年は忙しかったですよね。その間は覚えてないぐらい密に時が過ぎてね。若かったし。[E:note]ご自身のスケジュールなどは会社の仕切りですか。りりィ そうですね。でも、要望はとり入れてもらって。私たちはフォークロックと呼ばれていた時代なんですけど、そんなに密に働かなくてよかった。テレビも出なくてよかったし、休みもたっぷり取ってよかった。[E:note]そうなんですか。りりィ うん。だから、ライブも、どれぐらいやったかなあ。取材とかはありましたけど。月に、多くとも10本ぐらいじゃないかなあ。私なんか春と秋に1ヵ月ずつお休みもらっていましたから。[E:note]へえ。それは、売れっ子としてはあり得ないですね。りりィ あり得ない。いまの子たち、特にアイドル方面の子たちには考えられないんだけど。[E:note]昔は、そういうものだという感じだったんですか。りりィ そうですね。 [E:note]ハコさんに話を聞いたら、ハコさんのときは全然違ったみたいですね。ものすごく忙しかったという。りりィ 私は、そんなに仕事した覚えはないよね。[E:note]曲はどんどん書けるほうですか。りりィ そうでもないですね。だから、年にアルバム1枚と、シングル2枚がノルマだったんですけど。自分の中では「発表できるのは1曲ぐらいかなあ」と思っていても、埋めなくちゃいけないという作業になっていくわけですよ。だから、後半のLPは本当に、「この曲とこの曲ぐらいしかよくないよ」みたいな感じが多かったかなあ。東芝を30歳ぐらいのときに辞めて、ビクターに移るんですね。本当に申し訳ないけど、27歳ぐらいからは自分の中でどうやっていけばいいのか全然わからなくて一番苦しかったです。それで33歳のときに子供ができて、そこから休みに入るんですけどね。