041 [E:note]路上ライブを始めたのは?
石野田: 高校1年生のときから、上京してすぐに路上ライブをされている人たちと出会って一緒に歌うようになったんです。その後、失恋がきっかけで、いっぱい自分で曲を作るようになったんですよ。この想いを! みたいな、いつかその人に届いたらいいなぁという想いで作り始めて、それで路上ライブを始めたんです。それと、歌手になるって決めて上京したときから、将来、ぜったいビッグになるぞ! と思っていたので、ビッグになったら大きなところで唄うとなったら、度胸をつけておかないとダメだろうなぁと考えて(笑)。度胸を付けるために路上で歌を唄おう! と、一人で唄い始めたんです。
[E:note]神津島から一人で来ちゃうのもすごく思いきったことだと思うけど。
石野田: 中学までちょっとイジメられていたのもあって、逃げたいという気持ちと、将来歌手になって見返してやる! って気持ちが強かったんでしょうね。それに、神津島から東京まで10時間かかるんですよ。オーディションを受けるたびに島からではとても通えない。それで上京することにしました。

[E:note]四ツ谷で唄っていたのはなぜ?
石野田: ちょうど高校に通う電車の乗り換え地点で、学校帰りに制服を着たまま唄って、唄い終わったら帰る、という毎日でしたね。

[E:note]それがどういうことがきっかけでデビューが決まったんですか?
石野田: 高2のときにデモテープを送って、それがひっかっかって、最後にオーディションに合格したという感じな042_2んですが、そのときは路上ライブをやればすっごい人だかりができるほど人気だったのでその勢いで。制服を着て、派手なギターケースを置いて唄っていたので目立っていたし、当時はそれほど路上ライブをしている人がいなかったんですよ。ゆずが横浜の伊勢崎町でやっていたくらい、とくに女の子はいませんでしたからね。

[E:note]メジャー時代、作品は何枚くらい出されたんですか?
石野田: アルバムが1枚とシングルが4枚です。たった2年ですからね、あっという間でした。 そのあとは郷ひろみさんや長山洋子さんに詞を提供しました。

[E:note]今振り返れば、そのころの石野田さんはどんな子でした?
石野田: メジャーデビューするのが夢だったんです。そこがゴールで活動していたので、デビューしたら次の夢が見つからなくなっちゃった。どうしていいのか、お仕事はいっぱいいただいて、一生懸命やっているつもりだったんですけど、どこに向かいたいのかぜんぜんわからなくて、曲もぜんぜん作っていかなかった。次の目標が見つけられなかったのがダメだったんだと思います。

[E:note]レコード会社との契約が切れたときの心境は?
石野田: まだすごく若かったですし、契約が切れたのがちょうど20歳のころで、まだまだすごい自信に充ちあふれていたので「こんな才能あふれる私を切っちゃうのか! 知らんぞ!」みたいな変な自信があったんですよね(笑)。でも、自分で作詞作曲もするし、ギターも弾くし、一人でやっていけるわ! みたいな感じで、自分でライブハウスをブッキングし043てライブをやっていました。で、その後もいろんなことがおこって、今度はバンドを組むことになったんです。『kicca』というバンドを組んで2枚ミニアルバムを出したんですけど、これもまた、やりたい音楽の方向がうまく一致しなかった。それでダメになってしまって、歌が唄えない時期がそのあとにあって……。4年前くらいですね、バンドの契約は続いていたんですけど、曲が作れなかったんです。みんなが納得する曲ができない。自分から自然に出てくるものが歌だと思っていたので、みんなが良いと思う歌をどうやって作ったらいいのかわからなかったんです。1年弱くらいひきこもって、歌が唄えない、死んでしまおう! みたいな感じでしたね。買い物をしてストレスを発散させたり、海外に逃亡したり、何かから逃げたい! という、友達も住んでいたからなんでけど、音楽の街、ニューオリンズにも行きましたね。すっごいみんな自然に、楽しそうに音楽をしてて、あ、自分も自然にやればいいんだ! と思うんですけど、日本に帰ってくると現実が待っていて、なかなか解決ができなかった。

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