家や家族を失くした人たちが、ここで大きな家族になった。避難所閉鎖までのヒューマン・ドキュメント。
東日本大震災から1年経過した頃から、地震や原発をテーマにしたドキュメンタリー映画の上映が盛んになっている。映画『石巻市立湊小学校避難所』は、避難所にいる人たちの何気ない日常を半年間追ったヒューマン・ドキュメンタリーだ。監督の藤川佳三さんに、作品についてお話をうかがった。
映画『石巻市立湊小学校避難所』
監督・撮影/藤川佳三
プロデューサー/坂口一直 瀬々敬久
編集/今井俊裕
撮影協力/森元修一
上映時間/124分
©2012 STANCE COMPANY IN&OUT
新宿K’s cinemaに て9/14(金)まで絶賛公開中 他 大阪・名古屋・仙台・大分など全国順次公開
(オフィシャルサイト)http://www.minatohinanjo.com/
(イントロダクション)
2011年3月11日。東日本大震災。宮城県第二の都市、石巻市の死者・行方不明者は3,779人。ピーク時には5万
758人が避難所生活を余儀なくされた。4月21日。避難所の1つとなった旧北上川に近い湊小学校を藤川佳三監督は訪れた。監督が、いちばん驚いたのは避
難所の底抜けに明るい様子。でも何日か過ごしてわかったのは、笑顔の奥底にしまいこんだ悲しみの大きさだった。そして思った。ずっと一緒に過ごさないとわ
からないことがたくさんあるのではないだろうか。それから避難所が閉鎖される10月11日まで6ヶ月あまり。そこに泊まり込み、避難者に寄り添いながら、
カメラを回した。それがこの映画だ。
監督・撮影:藤川佳三
1968年生まれ、香川県出身。中央大学社会学科卒。映画を志し知人の紹介で瀬々敬久監督に連絡をとったのがきっかけで助監督になる。
以後、フリーランスで劇映画、テレビの仕事に従事する。2001年「STILL LIFE」でぴあフィルムフェスティバル入選。
その後、ドキュメンタリーを志向し家族の再生をテーマに自分の家族を撮影して「サオヤの月」を製作する。
――8月18日に公開初日を迎え、続く2日目と満席ということでした。率直なご感想をお願いします。
「この映画を撮り始めてから早く観てもらいたいと思っていたので、やっとその日が来て、そのうえ、満席ということで、すごく嬉しいです」
――公開を今の時期にされた理由は?
「撮影が終わったのが昨年(2011年)10月で、そこから編集作業をし、宣伝期間もいれて、ということをしていたら、今の時期になりました」
――作品をご覧になった方々で、どのような感想が多いですか?
「避難所の様子がすごく分かったというのと、テレビなどでは知ることのできないリアルな声がある、という2つの感想が多いです」
――昨年4月21日から石巻に入ったということですが、被災地に行こうと思われた理由をお聞かせください。
「被災地に一度行って自分の目で見たいと思っていたのと、映画『大津波のあとに』を撮った森元修一監督が、僕の友人でして、彼の撮った震災直後の3月の映像を見て、すごく印象が強かった。それで、彼がまた、4月21日から(石巻に)行くというので、同行させてもらいました」
(※映画『大津波のあとに』―東日本大震災から2週間後の仙台、東松島、石巻を撮影した記録。児童108人中74人が津波にのまれてしまった石巻市大川小学校を中心に描いたドキュメンタリー映画。監督・森元修一。)
――行き先に石巻を選ばれたのは森元監督が行かれていたから?
「そうですね。石巻について何も知らなかったので、彼が行くところへ行こうと。湊小学校を選んだのも、彼の拠点が湊小学校だったので一緒に行ってみようと」
――その時点でカメラに収めようと思われていたんでしょうか?
「いちおうカメラは持っていこうと決めていましたが、映画にしようというような気持ちはまだありませんでした」
――そのときに何を撮るかは決められていた?
「まったく何も決めていませんでした」
――4月21日というと震災から約1か月経っていましたけど、実際に被災地や避難所に足を運ばれてみての感想というのを、覚えていらっしゃいますか?
「人がたくさんいるなと。校庭に車がたくさん止まっていて、ボランティアの人や被災された人などがたくさんいました。あと、その日は、始業式がありましたので、お子さん、保護者、先生も体育館にいましたし、たくさんの人がいるなぁと思いました」
――先日、東京での公開まえに石巻で上映会があって、映画に登場されていた鈴木さんという男性が、カメラを持って戸惑っている監督をよく見かけたので声を掛けた、と、おっしゃっていました。やはり最初、カメラを回すのはためらわれた?
「4月21日から3日ほど湊小学校に滞在しまして、その時に、撮影をしたいという気持ちになり、一度東京へ戻って準備をして、あらためて4月29日に石巻に入ったんですが、避難所である教室にいきなりカメラを持って入ることもできず、廊下をカメラを持って歩いているだけでした。ましてや僕は、出版社や新聞社などの仕事で来ているわけではなく、まったくのフリーランスでしたから。最初は体育館を中心にカメラをまわしていたんですけど、体育館で人に声を掛けることも出来ませんでした」
――どのようにして、避難所の人たちと交流を深めていったんでしょうか?
「映画にも登場する、工藤さんという女性に、最初、声を掛けていただきました。僕が取材用の腕章をつけていて、カメラを持っていので、マスコミの人だと思って、学校の状況や被災の状況などをお話ししていただいた。それを伝えてほしいと言われたんです。それから、図書室で子供たちが勉強していると聞いて、図書室に行ってみた。工藤さんとの会話をきっかけに、初めて、避難所であった校舎、教室にも入れたんですよ」
――突破口は工藤さんとの出会いがあった。
「そうです。僕は当初、取材してどこかに発表するというあてもなかったので、被災者の方に質問をするのも失礼だと思っていたんです。ですから何も出来なかった。そのなかで工藤さんが話しかけてくれました。それで、図書室へ行ったらお母さんたちがたくさんいたんです。そこでお母さんたちといろいろ話してそこからまた知り合いが広がっていった。で、次の日も知っている人がいる図書室へ通い、体育館へ通い、という日々を続けました」
――4月から10月までの半年間を撮っていたということですが、ずっと、避難所で生活をされていたんですか?
「4月21日にから3日間いまして、29日にまた行って。それからほぼ一か月間ずっといました。それで一週間ぐらい東京に戻ってきて、また次は3週間いてとか、そんな感じです」
――滞在していくうちに、映画の方向性というのが定まってきたんでしょうか?
「そうですね。避難所にいるお母さんたちが明るく過ごして子供と一緒に、冗談を言いながら、時にはラジカセで音楽をかけながら歌を歌ったりして、明るいその様子にすごく驚いたんです」
――もっと暗くて重々しい雰囲気かと思われていた?
「はい。もっと沈んでいるのかと思ったら、僕にも話しかけてくれたり、すごくオープンな雰囲気で、それにまずびっくりして。で、そうかと思いきや、ボランティアの人が花を持ってきて飾った時に、それを見ていたお母さん方が『本当にきれいだね』って涙されていた。その姿を見て、いろんな気持ちを抱えているんだな、明るくしているけど、抱えているものは大きくて、我慢しているんだな、というのが分かった。そういうことさえ僕は知らなかったので」
――行ってみて、いろんな出来事に触れていくうちに、避難所の様子を撮ろうと思うようになったんですね。
「はい。最初に石巻入りした3日間で、自分の先入観、テレビや新聞で見ていたものと自分が見聞きしたものが違っていたので、どういう風に一日一日を過ごしていくのか知りたいと思うようになって、29日からあらためて湊小学校へ行ったんです。自衛隊、ボランティア、被災された方も動いているなかで、明るくしている避難所の人たちというのがすごく印象に残った。被災された方はこの湊小学校を避難所として数か月過ごさなくてはいけないというのが決まっていましたので、どういう風に暮らしていくのかに興味を持ちました」
――でも、避難所の方全員がカメラを向けても構わないという人ばかりではなかったと思うのですが。
「そうですね。でも、いきなりカメラを向けたりはしませんでしたし、質問をして答えてもらうというQ&Aのような撮り方は止めようと思っていたので、知り合い、関係ができ、自然な話をしていくうちで、その人の性格を知りながら、どんどん避難所の人たちと知り合っていったというか。そのなかでこの人たちの撮影をしていこうと思いました」
――避難所にいた、69歳の愛ちゃんと小学4年生のゆきなちゃんが長く登場していますが、あの2人を撮影しようと思った理由は何ですか?
「湊小学校という、小学校が避難所になったので、子供を撮りたいとは漠然と思っていたんです。体育館でパキスタンの方が団体で炊き出しをしているときに、愛ちゃんを始め、おばちゃんたちが野菜切りをしていて、元気な感じがしたので、知り合いたいなと思っていたんですよ。それで話しかけてついて行ったら、教室にゆきなちゃんがいました。それから何度か愛ちゃんとゆきなちゃんが一緒にいるのを見て、『この2人は仲がいいんだな』というのが分かって、2人が避難している教室にお邪魔するようになったんです。そのうちこの2人は特別な関係だなというのがわかってきたんです。そして、この2人を撮りたいなと思うようになりました」
――半年間、避難所の様子を撮られたということは、かなりの撮影量になったと思います。それを編集するのはかなり大変な作業だったのではないでしょうか。
「全部で190時間まわしました。毎日7~8時間ぐらい見て、見るのだけで、一か月間かかりました。編集には5か月間かかりました」
――膨大な量のなかで、『これも残したい』と思いながらの編集作業だったんでしょうか
「それもありましたけど、記録として避難所の出来事を撮っていたので、イベントや班長会議、洗濯機の使い方等も撮っていたんです。ただ、映画として皆さんに観てもらうことを考えたときに、皆さんそれぞれいろいろ抱えているけれども、前向きに生きている姿を伝えたいと思った。悲しいけれども、明るく過ごしている姿、助け合っている姿を残したいと思ったので、そこに焦点を当てながら、編集作業しました。それに5か月間かかりました(笑)。残したい映像もたくさんあったんですけどね」
――登場されている方、皆さん、それぞれにすごく雰囲気があって、全員が印象に残りました。
「皆さん、本当につらいときにいきなりカメラを向けられるのは嫌だと思いますが、人間として知り合いながら、話を聞くように撮影をさせてもらったので、『撮ってもいいですよ』って言ってくれる方が多かったんです。公開に先立って、8月16日に湊小学校で上映会をしたときに、ゆきなちゃんのお父さんも、とても喜んでくださったし、多くの人が避難所での生活を懐かしむような思いで見てくれました」
――湊小学校での上映会の反応はいかがでしたか?
「皆さん、『私が写っている』とか、すごく喜んでいただきました。涙を流してる方もいました。愛ちゃんの姪っこさんもすごく喜んでくださいました」
――愛ちゃんは作品の中でもすごく人気がありましたよね。
「愛ちゃんはいつもおもしろいことを言うので、教室でも人気者だったんです。今は仮設住宅でお一人でいらっしゃって」
――今後、撮られた方々の続編を発表する機会などは考えていらっしゃるのでしょうか?
「継続して撮っている方はいます。撮ることが復興につながるのかは分かりませんが、その人の人生ということで、長い目に見て、撮っていきたいと思います」
――震災から1年5か月が経過し、被災地の情報を目にする機会が少なくなる中で、避難所の様子が知られる貴重な記録だと思いました。最後に、作品のPRをお願いします。
「湊小学校の避難所で知り合った方は、本当に強い方が多かったんですね。映画に出てもらった方もそういう方が多くて、皆さん被災状況はそれぞれ、厳しい状況なんですけど、前向きに一歩踏み出そうとしている強い方々に出会うことができました。その方たちの日々頑張っている姿にすごく感動したので、その姿をぜひ見ていただきたいなと思います」
前向きに過ごす住民同士の支え合う姿を描くも、当初は『出版社や新聞社などの仕事で来ているわけではなかったので、話しかけることもできなかった』と話す監督。その、戸惑いながら、おずおずと避難所の人たちの輪に入り、避難所の人たちも明るく向かい入れ、双方がじょじょに親交を深めていった半年間の空気感が伝わる作品でもある。東京をはじめ、大阪、名古屋、仙台と公開が予定されているが、企業などの団体等にも上映会を行っている。上映会の問い合わせはムヴィオラ(03・5366・1545)へ。