「うちは貧乏だからピアノなんてなくて。中学に入ると、戦時中は娯楽もないからみんなでハーモニカを吹いていましたよ。戦争に負けたら、今度は楽器が高くて買えない。だけどギターくらいなら、と、同い年だった小坂一也(故人)と仲間たちとハワイアンバンドを組んだんですよ」
そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第64回のゲスト・作曲家の小林亜星さん(83)。『寺内貫太郎一家』でおなじみ“昭和のガンコオヤジ”のイメージが強いですが、中山の質問にぽつり、ぽつりと丁寧に会話される姿が印象的でした。そんな2人のトーク、スタートです!
中山「亜星さんは作曲家として多くのヒットも出されていますよね。CMソングだと、日立グループ、さいでりあ、ファミリーマート、積水ハウス、マルハの牛丼・中華丼などなど、全部歌えちゃう。多いときは、何曲くらい作られましたか」
小林「恥ずかしいけどね、最盛期は1日3〜4曲くらい。酒が好きだから、飲み屋に行って、飲んじゃうんですよ。『明日3曲、やばいな』と思いながら(笑)」
中山「でも締切りは明日なんですよね」
小林「だからとにかく朝までちゃんと寝るんですけど、夢の中にCMだとか、作詞からアレンジからみんな出てきたことが3回ありましたよ。起きてすぐに書いて、録音室に行ったら『今日も、素晴らしい曲をありがとうございます』なんて言われて」
中山「ずっと曲のことを考えていたんですね。ヒットの法則みたいなものはありますか?」
小林「服部正先生(作曲家)に教わったことですけど、歌を音楽だと思ったらダメなんですよ。歌い手という、ひとつの『演劇的要素』。それから歌詞という『文学的要素』、そして『音楽的要素』。この3つで作られているんです。どれが欠けてもダメ。3つとも100点満点じゃないとヒットは出ないんです」
中山「かなり難しそうですけど。そのヒットを連発した亜星さんは、どうやって音楽を始められたのでしょう?」
小林「朝鮮戦争が始まって、進駐軍が向こうで戦って、日本に帰ってきてクラブで遊んでたんですよ。バンドが不足してたみたいで、オレたちがバンドを作って、進駐軍のところに毎日行くようになって。当時の初任給は8,500円くらい。それが、1日に3,000円もくれるんだから。若いのに金持たすとろくなことしないですよ(笑)」
中山「お金がガンガン入っちゃうんですね」
小林「稼いだって使っちゃって。しかも間もなくジャズがはやらなくなってバンドも終わり、製紙会社の営業部に就職しました」
中山「まじめに働いてたんですか」
小林「癖がついてて、給料を1日で使っちゃうからこれはダメだと思って辞めちゃってさ。それで服部正先生の門をたたきました」
中山「やっぱり音楽だったんですね」
小林「人間、自分の好きなことをやったほうがいいと思う。ダメでも好きなことをやったほうが、成功率が高いね。だって、営業職を好きな人と嫌いな人だったら、好きな人のほうが成績が高いでしょう」
中山「そこから作曲家としてスタートを」
小林「兄弟子にお世話になって、アレンジの仕事をしていたんですよ。テレビ局に行くと『僕は今日は仕事ないんだけど、誰か亜星ちゃんの仕事ない?』なんて、誰かが仕事をくれるんです。それで『夜のしらべ』という音楽番組をもって、毎週やってたんですけど、アレンジをやっていてもしょうがないなと思って、食えなくてもいいと、一切アレンジの仕事を辞めて。それで曲を作るようになったんです」