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「以前は大きなテーブルが置いてあって、12~13人くらいの会合や食事なども行っていた部屋です。ここに三浦のベッドを置いて介護用の部屋にしていたんです。彼は起きるとマッサージチェアに座り、一日中、本や雑誌、新聞を読んでいました」

 

そう語るのは、作家の曽野綾子さん(85)。今年2月3日、作家で文化庁長官などの数々の公務も務めた三浦朱門さんが間質性肺炎で亡くなった。享年91.三浦さんは’15年春ごろから、さまざまな機能障害に見舞われるようになり、その年の秋に検査入院。そして退院以降、妻の曽野さんの在宅介護生活が始まった。夫婦で1年以上、いっしょに過ごした部屋には、現在は三浦さんの遺影が飾られている。

 

「私の居場所は、彼のベッドから3メートルくらいのところに置いたソファです。飛行機のファーストクラスくらいにはリクライニングするので、かなり便利でした。三浦が退院して、しばらくの間は毎晩、私はそのソファで寝ていたんです。横に移動式の台を持ってきて、昼間はそこで原稿を書いたり、校正刷りに手を入れたり、私の仕事場になっていました」

 

曽野さんが三浦さんと結婚したのは’53年10月。東京都大田区内に自宅を建てたのは50年前のことだが、この家で介護をしたのは、三浦さんだけではない。実母、そして三浦さんの両親の3人も在宅介護し、そしてみとってきた。

 

「母は離れで、義父母は隣接する別棟で暮らしていました。母は83歳、義母は89歳、義父は92歳と、みんな比較的長命でしたね。私もずっと仕事をしていましたし、体が弱ってきた親たちと別居するとか、施設に入れるという選択肢は考えられませんでした。私はただ、三浦の両親のときもそうですが、『このまま家にいたい』という、彼らの希望をかなえたいと思いました。高齢者の望みなんてささやかなものです。『家で孫たちといっしょに暮らしたい』『寒い日には熱い鍋焼きうどんが食べたい』とか。彼らの人生の本質的な願いをかなえることは難しいかもしれませんが、そういうささやかなことは家族としてかなえたかったのです」

 

曽野さんは苦労話を語ることを好まないが、3人の老親の介護はなみたいていのことではなかっただろう。

 

「当時、私は『わが家はミニ養老院をやっていますので』と語っていました。『まとめて面倒みたほうがラク』な面もありますからね。義父母が住んでいた別棟は古く、介護をしている私にとっても不便でしたが、義母が修理をさせてくれないのには困りました。『私たちは、どうせすぐ死ぬんですから、このままでいい』と、言うのです」

 

そこで義母が入院中、素早く畳を替えたり、障子を張り替えたり、伸び放題だった庭の草を刈りこんだりした。曽野さんは「義母は不満だったかもしれません」と話す。

 

「私の介護は手抜きでしたが、長続きさせるには、それくらいがちょうどいいんです。完璧にやろうとすると、介護するほうが、追い詰められ、くたびれ果ててしまいます。むしろ怠け者のほうが介護に向いているんですよ」

 

義父は90歳近くで直腸がんになり、緊急手術後、人工肛門に。人工肛門の措置を手際よくできず、寝間着やシーツ、布団まで汚してしまうこともしばしばだった。

 

「でも私は布団そのものを、自宅の洗濯機でも洗える、化繊入りの夏布団に替えてしまったのです。『あそこの嫁さんは、冬なのに、親に夏布団をかけさせてる』なんて非難をされる心配を自分の心から放逐してしまったわけです。夏布団三枚重ねれば暖かいんです。世間の目を気にしないことも介護には大切ですね。逆に、介護される側に必要なのは、『自分がしてもらうのはあたりまえ』という考えを捨てることです。何かしてもらったら、『ありがとう』と、感謝の気持ちを伝えることは、高齢者の義務だと思います」

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