「母が亡くなって1カ月たったんですけど、なんだか実感がなくて。うちの弟とも『どうしてだろうね』と、話しているんですけど……」
問わず語りに、作家・林真理子さん(63)は、現在の心境を語り始めた。林さんの母・みよ治さんが亡くなったのは、6月16日の朝。享年101だった。
「101歳まで生きると、たぶん、85歳くらいで亡くなった方とはずいぶん違うと思うんですね。いつも、ずっと覚悟していましたから。もう、いつ死んでもおかしくないと思っていましたから」
超多忙な売れっ子作家が、時間を無理に作り出しての「遠距離介護」--。
「ここ数年は。1週間に1度は、母のいる山梨の介護施設を訪れていました。最初は、父が入院してから、母は自宅で一人暮らしでしたから、やっぱり心配なので、仕事の合間には帰っていましたね」
――林さんは、エッセイなどで自分のことを「本屋の娘」と綴ってきた。その本屋さんを始めたのが、みよ治さんだ。これまで、エッセイのみならず、インタビューなどでも、母と娘のさまざまなエピソードは幾度となく披露されてきた。みよ治さんをモデルにした小説『本を読む女』もある。林さんにとって、かけがえのない、敬愛する母――。
林さんに両親の介護問題が浮上したのは、平成15(’03)年。父・孝之輔さんが大病をして入院し、みよ治さんの一人暮らしが始まったのだ。林さんは、多忙な仕事の合間を縫うように、頻繁に実家に帰るようになっていた。
「幸い、実家近くに従姉妹が住んでいて。毎日、『おばちゃん、生きてる?』って、よく面倒を見てくれました。本当にありがたかったです」
病院暮らしが続いた孝之輔さんは、家に帰りたがったが、みよ治さんは「絶対、嫌」と。2人はくしくも生年月日がまったく一緒。90歳に近い妻が同い年の夫を介護するのは、たしかに無理がある。5年後、孝之輔さんは亡くなった。享年93だった。95歳になったとき、みよ治さんがポツリと言った。
「バチがあたって、こんなに長生きしちゃった。10年前に死んでいたら、いい人生だったと思えたかもしれないけど」
そんなふうに気弱になることもあったが、「私も作家になりたかった」と漏らしたのは97歳のころだ。戦後、鎌倉に作家のための大学ができたが、祖母に反対されて行けなかったという。
「あのとき行っていれば、私は真理ちゃんなんかより、もっとすごい作家になっていたかもしれないのよ」
みよ治さんは、本気で悔しがっていた。90代になっても、短歌を詠み、クロスワードパズルを解いて、意気軒高に見えたみよ治さんも、その年、ベッドから落ちて骨折してから、寝たきりの生活になり、老いが目立つようになっていく。
「地域でいちばん優良といわれる介護施設へ入ったのですが……。介護って、やさしい中高年の女性にやってもらいたいんですけど、母は、60歳過ぎの、入居者かと思うようなオジサンにオムツを替えてもらっていて。プライドの高い人ですから、あれは、かわいそうだったな……」
施設には、みよ治さんの意思で入ることを決めたが、やはり悔いは残るという。
「これ、お母さんに食べさせてあげたかったなぁ、とか。母をうちに引き取っていれば、とか。実際、家を建てるとき、エレベーターを付けて、母を引き取ろうとか、お手伝いさんをつけることも考えました。でも、母は『絶対、あなたの負担になるから』と。『親によって、子どもの人生が変わるのがいちばんつらい』と、言っていて。その言葉に甘えちゃったわけですが。どんなことをしたって、悔いは残る。でも、きっと悔いは供養だと信じたいです。自分を責めない程度の悔いは、死者への優しさだと思うから」