「いま思えば、白血病の彼の淡々とした姿に、私自身の生きづらさがリンクしたんだと思います。彼も、本当の自分を後回しにしているように見えた。まわりに、とくに親にね、迷惑をかけないように頑張っているというか」
そう当時を振り返るのは、女優の東ちづるさん(57)。「お嫁さんにしたい」ともてはやされていた25年前。東さんが、たまたま自宅で情報番組を見ていると、画面に17歳の高校生が現れた。
「彼は白血病でした。私の故郷、広島の因島の男のコで、余命幾ばくもないかも、と」(東さん・以下同)
気になったのは、取材を受けている少年の、あまりにも淡々とした様子だった。
「なぜかすごく引っかかったんです。死を見つめているはずなのに、泣くでも怒るでもない。彼はどうして出演をOKしたんだろう。だって、全国ネットで自分の病気を公表するんですよ」
少年の本当の気持ちが知りたくて、「居ても立ってもいられなくなった」。連絡先を調べ、彼の自宅に電話。そんな衝動は初めてだった。
「じつは、あのころの私は、周囲の期待どおりに振る舞いながら、ひとりになると、わけのわからない焦燥感に押しつぶされそうだったんです。『生きていて何の意味があるんだろう』とか」
――東さんは、1960年、広島県因島市(現・尾道市)に生まれた。造船関係の仕事をしていた父25歳、会社員の母21歳という若い共働き両親の初めての子どもだ。
「母は、子育て本を読みあさって、それはもう一生懸命に私を育ててくれた」
“女のたしなみ”として常に薄化粧をし、家族にも素顔を見せないしっかり者の母親である。幼い東さんは毎晩、本の読み聞かせをしてもらい、小学校に上がるころには、自分から2歳年下の妹に読み聞かせをした。
「母から『1番がいいのよ』『優しい子がいいのよ』『ちゃんとしなさい』と教えられて、子どもってやっぱり親に褒められたいですから、応えちゃうんですよ。そうしたら『いい子ね。つぎも頑張ろうね』って言われて、また頑張って」
教師たちからも一目置かれ、もちろん成績はずっとトップクラスだった。当時の東さんは、周囲の期待を感じてなんとなく教師を目指していた。しかし広島大学の教育学部を受験して失敗。その通知を受け取ったときの母親の言葉が忘れられない。
「母は、ボソッと自分自身につぶやくように言ったんです。『18年間の期待を裏切ったわねえ』って。それはとてもリアルで」
周囲からは浪人を強くすすめられたが、母親の言葉に何かが吹っ切れたのだろう。東さんは大阪の関西外国語短大に滑りこみ、都会の一人暮らしとキャンパスライフを謳歌。卒業後は、大阪ソニーに入社したが、スキーのインストラクターになろうと4年で退社。
ところが、飛び入り参加したオーディションに合格し芸能界入り。関西の番組リポーターとして飛び回る。そして’87年、27歳のときに『金子信雄の楽しい夕食』(朝日放送)で全国ネットにデビュー。2年後には『THE WEEK』(フジテレビ)の司会に抜擢されて上京し、複数のレギュラーを持つ売れっ子となった。
「とにかく忙しくて、本当の自分がどういう人間かなんてこともわからない。でも、例の『お嫁さんにしたい』と言われたころから、素の自分とのギャップを感じはじめたんです。私、違うって」
白血病の少年に連絡を取ろうとしたのは、32歳のそんなときだった。
《ちづるさん、どうか協力してください。骨髄バンクのことを多くの人に知ってもらいたいんです。啓発のためのポスターを作ってください》
少年の家に電話をしたとき、電話口に出た父親とは、さしたる話もできなかったが、その後、彼の妹から分厚い手紙が届いたのである。
「読んで、最初は無理だと思ったんです。私はノーギャラでいいけど、ポスターを作るには多くのスタッフの力やお金が必要です。でも、『お兄ちゃんに死んでほしくない。治療法はあるんです』という文面に動かされて」
東さんは仕事で親交のあるカメラマンなどクリエーターたちに声をかけた。すると、一流のプロたちが二つ返事で快諾してくれたのである。
「そのうえ、撮影スタジオ代や印刷代なども、みんなでカンパし合って、ポスターが完成したんですよ。この経験で私は、お金がなくても、利益や利潤につながらなくても、人は誰かのために動いてくれるということを知りました」
それはまさに、いまの東さんの活動の原点だった。以来25年、東さんが関わってきたボランティア活動・社会活動は多岐にわたる。「あしなが育英会」。障害者アーティストを応援する団体。3.11後は被災地支援に力を注ぎ、「世界自閉症啓発デー」では、国連が定めた癒しの色・ブルーで渋谷や原宿の街を染めるという一大イベントも仕掛けた。国内だけでなく、戦争で傷ついた子どもたちのリハビリを行う「ドイツ国際平和村」の支援もしている。
それにしても、なぜボランティアを続けるのだろう。ニコッと東さんは笑った。
「最初は『救いたい』とか「癒したい」と思っていたんです。でも、“上から目線”の自分の態度が気持ち悪くなってきて。続けていくうちに、『私が癒されてるんだ』と気づくんです。あるがままのみなさんと一緒にいると、私も素でいられる。居心地がいい。ということは、この活動を求めているのは私なんだ、と。そうしていくうちに、『私、なんかつまらない優等生をやってたな』と自分を振り返れるようになったんです。もっと言いたいこと言って、弾けるような子ども時代を送りたかったとか、大人の目を気にしてたな、とか……」
ボランティア活動のきっかけになった“白血病の高校生”と、東さんは対面を果たしている。訪ねてきてくれた彼は、幸い薬物療法が効いて健康を取り戻していた。「東さんは、たくさんの白血病患者の命の恩人です」。彼の言葉に、東さんもまた心からの感謝をこう口にしたという。
「あなたこそ、私の人生の恩人なんですよ」