「(安室)奈美恵は最初、友達の付き添いでアクターズスクールに来たんです。第一印象は、色が黒くて、すごく細くて、ごぼうのよう」
そう語るのは、ダウン症の子どもたちのためのエンタテインメントスクール「LOVE JUNX」の創設者・牧野アンナさん(46)。父は、あの安室奈美恵を見いだした沖縄アクターズスクール(以下・アクターズ)の創設者で校長のマキノ正幸さん(76)。アンナさん自身、スーパーモンキーズの結成メンバーとして、安室とともにデビューした元アイドルだ。
引退後も、アクターズのチーフ・インストラクターとして、MAXやSPEED、三浦大知、黒木メイサ、満島ひかりなどを育ててきた。現在は、AKB48やSKE48の振付指導も担当。SKE48のファンからは、その厳しい指導ぶりに「鬼軍曹」「クラッシャー・アンナ」などと呼ばれている。
安室がアクターズに現れた’87年当時をアンナさんが振り返る。
「どちらかというと暗い感じで。レッスン場でも隙間に隠れるようにしているし、発声練習のときも手で口元を隠すような女の子でした」(アンナさん・以下同)
ニコリともせず、事務所の隅でモジモジする10歳の安室に、誰もがスター性など感じなかった。ところが、正幸さんは違った。安室の歩き方だけで、輝くオーラを感じたのだ。一度、帰りかけた安室を呼び戻し、母親に電話を入れ、「特待生にします。授業料はいりません」と、その場でスカウトしてしまう。
そして、正幸さんはアンナさんやアクターズの生徒たちに、「俺は奈美恵を特別扱いする。おまえたちとは才能が違う。奈美恵は絶対、スターになる」と宣言した。当初、アンナさんは、半信半疑だった。
「後になって、奈美恵を後のMAXのミーナと一緒に『ちびっこのど自慢』に出したんです。ミーナは歌がうまいと評判で、私たちの間では断トツの優勝候補でした。ところが本番になったら……」
無口で、いつも隅っこにいた安室が、ステージの上で突然、スパークした。明るくはじけて、踊り、歌った。
「驚きました。その姿に、私も『イケる!』と思いました」
歌と踊りがとにかく好きで、無類の負けず嫌い。母子家庭だった安室が、往復260円のバス代を浮かすために、片道1時間半の道のりを歩いて通っていたという話は、アクターズの伝説になっている。
「難しい子ではありましたね。まず、言うことを聞かない」
練習をサボるのではない。練習をしすぎてしまうのだ。「練習しすぎで、喉の状態がおかしいから控えなさいね」とアンナさんが言った直後に、レッスン室から、安室の歌声が聴こえてくる。慌てて、注意をしにいくと、聞かないふりをして、まだ、続ける。
「人から指示されてするのは嫌だったんでしょう。嫌なことは、絶対に嫌。何時間、説得しても、横を向いてツーッと涙を流し始める。後年、本人が言っていました。『言いたいけど、うまく説明できないから』と。言われたことが理不尽だと感じていても、それをうまく伝えられなくて。葛藤の涙だったんでしょう」
やがて、20歳のアンナさんをリーダーに安室、後のMAXのナナとミーナ、そしてヒサコ(新垣寿子さん・振付師)の5人で、スーパーモンキーズが結成された。’92年1月、5人で上京。大田区の3DKのマンションで共同生活を始め、9月には、第1弾シングル『ミスターU.S.A.』がリリースされた。
だが、すぐに売れたわけではなかった。東京のスーパーマーケットのレジ前で、パフォーマンスをしたことも。
「私なんて、胸のうちで『サイアク』と思いながら踊っていたのに、奈美恵は『歌えて踊れて、楽しかった』って、ニコニコしながら言うんです。私とは違うなと思いました」
デビュー前は、アンナさんがセンターだったが、デビュー後は、安室に代わった。
「ステージで一緒にパフォーマンスをしていると、わかるんです。観客もスタッフも、みんなの視線が奈美恵に集中する。技術も大事だけど、もっと大事なのは、人を引きつける魅力。奈美恵にはそれがある。でも、私にはなかった」
圧倒的な才能の差を目の当たりにして、アンナさんは、父の言葉を思い出していた。
《スターになるのは、才能を持った人がさらに努力した結果だ。おまえは裏方。裏方として輝く道だってある》
’92年年末。アンナさんはスーパーモンキーズをやめて、沖縄に帰った。スターになる夢はきっぱり捨て、指導者として生きる道が定まった。
「奈美恵は、できる子なのに、チヤホヤされてもてんぐにならず、もっと努力できる。あ、でも、彼女のは、努力じゃないのかもしれません。道を歩いていても、奈美恵は自然に体が踊っちゃってる。私だったら、どんなに楽しくても、『さぁ、やんなきゃ』になる。でも、奈美恵は自然に踊っちゃって、歌っちゃってる。『やんなきゃ』じゃない。それこそが才能なのでしょう」