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「昔から絵を描くのは好きだったけど。60歳を過ぎて、この軟らかいクレヨンに出合って。相性がいいのかな。指で描くっていうのが、とてもナイスなの。それで63歳のとき、生まれて初めて個展を開いた」

 

浅野順子さん(67)の住まい、渋谷区内のマンション。日の差し込む窓辺の机で、順子さんは黙々と絵を描いていた。筆やペンは使わない。指先でこねたクレヨンを、力強く画面に塗り込んでいく。順子さんの描く作品は、多くの人の心をつかんでいる。個展で飾られた絵は、ほぼ毎回完売するほどの人気だ。

 

順子さんは若くして結婚し、2人の男の子に恵まれた。長男・久順さん(46)は音楽の道に進み、弟の忠信さん(44)は、国内外で数多くの映画賞を受賞。いまや個性派の名優として評価も高い。忠信さんは言う。

 

「子どものころの僕の頭の中に面白いものを組み立ててくれたのは母だと思う。それが、いまの僕の核になってるのは、間違いないと思います」

 

順子さんは1950年、日本に駐留していたアメリカ軍の料理兵、ウィラード・オバリングさん(当時24歳)と、元芸者だったイチ子さん(当時39歳)の長女として神奈川県横浜市に生まれた。

 

順子さんが4歳のとき、父に祖国への転属命令が下る。オバリングさんは妻子を連れての帰国を望んだが、イチ子さんは悩み抜いた末、それを拒んだ。のちに、母は娘に「お母さん、あのとき意気地がなかった」と頭を下げたという。オバリングさんが帰国してしまって数年後。母娘は三重県の親戚を頼り、身を寄せた。

 

「いなかの小学校に転校したら、周りの子は素足にちびたげただった。そこへ、革靴履いた茶髪の子が来ちゃったら目立つよねぇ。ハーフの多い横浜ではほとんどなかったいじめに遭った。『アイノコ!』なんて呼ばれて、石投げられたりもしたな」(順子さん)

 

でも、順子さんはそんなことでは負けなかった。

 

「私、こんな性格だからさ。いじめられて泣いた記憶がないんだよね。どっちかっていうと、石を投げ返してたと思う。ごめんね~、お涙ちょうだいのいい話がなくて(笑)」(順子さん)

 

その後、横浜に戻り、順子さんは地元・神奈川の私立高校に進学。そのころから、夜遊びざんまいの生活を送るようになる。米兵が持ち込む最先端の音楽とファッション……’60年代の横浜は、多感な少女が飛びつきたくなる刺激に満ちあふれていた。

 

「あのころの本牧や中華街には外国人が通うバーがいくつもあった。いまでいう、クラブだよね。そういうお店に、膝上何センチどころじゃなくて、股下何センチって感じの超々ミニスカート姿で出入りして。店のママさんに守ってもらいながら、キャシー(中島)とか(山口)小夜子さんとか、そういう仲間と毎晩、家にも帰らないで踊り明かしてた」(順子さん)

 

生涯の友となった「サリー」こと佐藤和代さん(67)との出会いもこのころ。現在、横浜・関内で「サリーズバー」を営むサリーさんは、順子さんとの邂逅を「バチバチと火花が散った感じだった」と笑う。

 

「最初に会ったのは中華街の『ロマン』って店で、私たちのグループの“縄張り”。そこに順子が数人の女のコと割り込んできて、いちばん前で踊りだした。『何、この女!』ってにらみつけてやったよ(笑)」(サリーさん)

 

ところが翌日、ボーイフレンドを伴い偶然再会すると、2人は意気投合。彼氏そっちのけで語り合ったという。やがて「MUGEN」(赤坂)や「キラー・ジョーンズ」(銀座)など、東京に高級ディスコが開店すると、2人は横浜から遠征。オーディションを経て、お立ち台で踊る「ゴーゴーガール」にも選ばれた。

 

「当時は花形だったのよ。ゴーゴーガールって。ちょっとしたスター。1カ月、踊ってるだけで30万円とか40万円とか、いいお金にもなった」(順子さん・以下同)

 

そして同じころ、順子さんは横浜の遊び仲間の1人と恋に落ちる。1歳上の大学生・佐藤幸久さん(68)だ。

 

「私が19歳のころだったかな。あちらから猛アタックされて、付き合うようになったんだけど。私自身がちゃらんぽらんな性格だから、結婚するなら彼ぐらい真面目な人のほうがいいかなって」

 

こうして2人は結婚。順子さん、20歳のときだった。結婚の翌年、21歳で長男を出産。さらに、23歳のとき、次男・忠信さんが誕生した。ぶっ飛んだ10代を卒業した順子さん。結婚後は一転、家庭に入り、長く専業主婦として過ごす。

 

「私、仕事ってのが苦手なのよ。決まった時間に出社するとか無理、って(笑)。そもそも飽きっぽいの。(佐藤さんと)離婚した後は仕事もしたよ。だけど、3年と続かないのよ(苦笑)。でも、主婦業だけは23年間、子どもたちが成人するまで、きっちりやりました」

 

夫や子どもたちの食事の世話もかいがいしくこなした。それでも服のセンスなど、よその奥さまとは、やはりどこか違っていた。

 

「結婚したサリーにも忠信と同い年の息子がいたんだけど。話の合うお母さんって、周りには彼女ぐらいしかいなかったな。だってエプロン姿で外なんて絶対歩かなかったからね、2人とも。当時はベルボトムのジーンズにへそ出しってスタイルが主だった。その格好で買い物や、子どもの授業参観も行ってた」

 

順子さんは43歳のときに、それまで23年間主婦業を続けてきた家を出た。夫だった佐藤さんに好きな女性がいることがわかった。そこで順子さんは自らが家を出て、そして佐藤さんに「彼女と結婚を考えてるなら、私はいつでも籍抜くよ」と告げた。こうして、44歳で正式に離婚。

 

順子さんはいま、新たなパートナーと暮らしている。現代アートの芸術家・岩崎永人さん(65)だ。順子さんが個展を開くことになったのは岩崎さんの助言からだという。

 

「私の絵を一目見て『もっと大きな絵を描けばいいんじゃない?』とか『発表してみたら』と言ってくれた。それで決心したんです」

 

人生の折返し点を過ぎたいま、改めて自らの人生を描き始めた順子さん。そんな彼女に、これからのことを聞くと、元不良少女らしく、いたずらっぽい笑みを浮かべながらこう答えた。

 

「老後の不安なんて何もない。なってみなくちゃわからないことを、考えたってしょうがないじゃん。取越し苦労する必要ないよ。幸い、私はいま、健康だし。付き合って7年になるパートナーに、いまだにドキドキできるんだから。とっても幸せよ。それで、お兄ちゃんや忠信はもちろんだけど、孫たちの先行きも見てから死にたいな、と思っていて。そうね、予定では120歳までは生きようかな」

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