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最近、“現役バリバリ”で活躍している80歳以上の女性が目立ちます。「人生100年時代」ともいわれる今、年を重ねるほどに輝く秘訣は何なのか。素敵な大先輩の言葉に、大きなヒントがありました。“生涯現役”を実現するための50代の過ごし方――。

 

「夢のようなことですよ」

 

桐の箱から証書を広げて喜ぶのは、東海学園女子短大名誉教授の尾関清子さん(89)。30年以上にわたり、編布(縄文時代の布)についての研究を続け今年3月下旬、立命館大(京都市)から、博士号が授与された。

 

編布とは、麻や木の皮の繊維を編んで作られたもので、尾関さんは全国各地の165遺跡から、約830点の編布そのものや土器に付いた編布の跡から、編み方や使った道具を分析。学位の取得はまったく考えていなかったが、’12年に研究をまとめた書籍『縄文の布-日本列島布文化の起源と特質』(雄山閣)を出版。今回の“女性で最高齢”での授与につながった。

 

戦後の混乱期を生き抜いてきた尾関さんの人生は、波瀾万丈だ。16歳で終戦を迎えた尾関さんは、洋裁の専門学校に通った。父は小学校の先生で、趣味に絽刺しをしており、手先が器用なのは親譲り。支店長の依頼で、銀行員などをして働き、’53年4月に見合い結婚をした。ところが、3カ月で離婚。

 

「嫁ぎ先での気苦労のせいか相当やつれてしまったようで、義父から『実家に帰って養生したら』と勧められたんです。実家に帰ったら親が『もう戻らなくていい』と、婚家先とはそれきりに。私は出戻るのが嫌で、実家に帰らず、東京の伯母の家で暮らすことになりました。そして、『もう結婚しないと決めたのだから、好きなことをとことんやる』と、手に職をつけようと手芸などを習い始めました」(尾関さん・以下同)

 

3年後、名古屋で人形教室を始めた。当時、結婚するときに日本人形を持参する習慣があり、結婚前の女性たちが習いに来た。生徒たちの作品展を開いたところ、それを見た東海学園の関係者から「手芸の先生になってほしい」と懇願され、’64年に東海学園女子短大の講師として教壇に立ち、後に助教授になった。

 

大きな転機が訪れたのは41歳のとき。一家の大黒柱だった父(享年63)が他界した。

 

「父の死に直面した私は、『いずれ私も老いを迎えなければならない』と思いました。短大の講師と並行して人形教室を続けることは体力的に不可能と考え、人形教室を閉鎖しました。講師を続けるためには何か専門的な知識が必要と考え、上司と相談のうえ、名古屋工業大学に内地留学し、染色を学びました」

 

そして50代。家政学科で学ぶ学生が時代とともに少なくなり、手芸の代わりに装飾史的な生活文化史を教えることに。ある先生から「誰も手がけていない分野を研究したほうがよい」と、“発生期の櫛”についての研究を始めた。縄文時代の遺跡を訪ねるうち、衣服をまとっている土偶が出土し、興味を抱いた。調べると縄文時代にも編み物があった。それが“編布”だった。

 

「新潟県十日町市には、江戸時代から明治まで編布と同じ編み方の作業着が伝わり、博物館に復元されていることを知り、編み方を教わりに行きました。縄文時代の布の再現は難しいので、今まで誰も編布を復元しようとしなかった。そこで私は『縄文時代の人ができて、今の私たちにできないことはない』と思い、必死に再現しました」

 

その道のりを、尾関さんは「先行研究がないので謎解きの連続でした」と簡単に言うが、編布と毛皮の衣服を着て、竪穴式住居を借り、学生たちと3日間泊まり込んで「冬季にどのように過ごせるのか」を調べたこともあったほど、何事もやると決めたらとことん追求する。

 

「学生さんたちに伝えていることは『作る喜びを持つ』ということ。物を作ってできあがったときに楽しい、うれしいという感情が湧かないと続きません。その気持ちさえあれば、50代で始めたことでもずっと続けられますよ」

 

17年をかけて本を書き上げるなど、日々の積み重ねが力になることを実証した人の言葉には、重みがある。