「テレビで言いたいことを言っても嫌われないのがすごい」と、カンニング竹山(47)を以前から高く評価していた美輪明宏さん(83)。その竹山と異色の対談が実現!
美輪「私と対談するなんて、不思議だと、そうお思いにならなかった?」
竹山「はい。最初マネージャーから話を聞いたときは驚きました。でも、“美輪さんと対談するんだ”と妻に話したら、“美輪さんって、あの美輪さん? なんで? 間違ってるんじゃないの!”って。いちばん驚いていました」
美輪「“惚れられてるらしい”って言えばよかったのに(笑)」
竹山「いやいや(笑)。初めてお話しさせていただいたのは、美輪さんがレギュラー出演されている『ありえへん∞世界』(テレビ東京系)にお邪魔したときです」
美輪「もう7~8年ぐらい前になりますね。ところで、竹山さんをはじめ、最近はいろんなお笑いの人たちが、学者さんたちと同じようにコメンテーターとしての扱いも受けていますね。コメントもロジカルで、ふさわしい発言をなさっています。その中でいちばん目立つのがあなたですよ」
竹山「ありがとうございます」
美輪「じつは竹山さんの履歴を全然存じあげなくて。私は面白いと思った方の人生に興味があって、その方の過去の歴史を詮索するのが趣味なんです。どういう方なんですか?」
竹山「どういう方って……。どこから説明すればよろしいですか?」
美輪「お生まれはどちらですか?」
竹山「生まれは福岡です」
美輪「え~、九州人?」
竹山「はい、うちの父親の実家は筑豊、炭鉱ですね」
美輪「素敵」
竹山「僕は福岡市生まれで、3人きょうだい(兄、姉)の末っ子で育ちました」
美輪「私は『ボタ山の星』という筑豊の子どもたちの歌を作っているので、“筑豊”って聞くとなんだかとても親しい感じがします」
竹山「僕が小学校4年生ぐらいになるときまでは、父が貿易とか金貸しみたいな商売をやっていて、けっこう裕福でしたね。手広くやっていたみたいですけど」
美輪「その当時は、そうでないと生きていけなかった時代ですからね。お父さんも何でもやらないといけない時代だったんですよ」
竹山「だから、小学校ぐらいまでは結構お坊ちゃんで育ちましたね。父がもともと貧乏だったのもあると思うんですけど、無理やりバイオリンをやらされたり(笑)」
美輪「バイオリンをお弾きになるの?」
竹山「もうだいぶ忘れましたけど」
美輪「今も持ってらっしゃる?」
竹山「最近新しいのを買いました」
美輪「ストラディバリウス?」
竹山「そんなの買えないですよ。割と普通に売っている数十万円ぐらいのやつを買いました」
美輪「裕福な家庭でお育ちになられたのですね」
竹山「ところが、父の会社が倒産。生活は一変し、借金生活になりました。当時、まだ小学生でしたけど、いろんなものを見ましたね。“人間って金で変わるんだ”と」
美輪「いちばん大事なところを勉強なさったのね」
竹山「貧しくなった途端、父と仲がよかった友達たちの態度が豹変しましたからね。親戚連中も態度が変わり……父もどこかに行って家からいなくなりました」
美輪「“この人は大丈夫な人間だ”と信じ込んでいた人ほど、豹変するんですよ」
竹山「それが高校生になると世はバブルを迎えて、倒産後、どこかに行ってた父が、土地転がしで儲かって家に帰ってきたんです。僕は東京で芸人になろうと思って19歳で上京。そこで小学校の同級生(故・中島忠幸さん)と『カンニング』というコンビを組むんですけど、21歳ぐらいのときにバブルが弾けました。その後父は、何十億円という借金ができるとわかって、商談中の事務所で脳出血で倒れて急死したんです。52歳でした」
美輪「ショックだったでしょうね」
竹山「そうですね。でも、亡くなって蓋を開けてみると莫大な借金だけが残ってました。父は僕と兄の名前を使い、会社の常務とかにしてたり、僕らの名前で勝手に土地を転がしていたり……。めちゃくちゃしてたな親父! って(笑)」
美輪「責任を取られた?」
竹山「いえ、遺産放棄という手続きをしたので負債は免れました。でも、何もかもなくなりましたね。唯一残ったのは実家の家だけ。父がだいぶ前に母の名義に変えていたんです。だから、家以外はすべてなくなりました。家だけは母が住めるようになりました」
美輪「竹山さんはいろんな経験をされてこられたのですね」
竹山「それから10年ぐらい売れないまま、東京でやっていたんですけど、30歳ぐらいから、漫才ネタで怒ったりすることがウケ出して、なんとなく仕事が上向きになってきたんです。でも、34歳のとき、相方が白血病になって……。36歳で亡くなりました。そこからはずっと1人でやってますね」
美輪「その方は今でもずっとあなたを守ってらっしゃるわね」