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「年を取ればとるほど、いい笑いはできなくなる。だから、あと2年ぐらいは笑いをとことんやろうと思って。いま、腹を抱えて笑えるほどのテレビ番組を作るのは難しい。でも、約50年前、コント55号(故・坂上二郎さんとのお笑いコンビ)のときのぼくは、そんな番組が作れていた。いまでも、二郎さんがいたらできると思うんだけど、もういないから、ぼくの“相方”を育てるために、80歳までの2年を使おうと」

 

こう語るのは、コメディアンの萩本欽一(78)。’15年4月、駒澤大学仏教学部に社会人入試で入学。4年間通い、まだ取り残した単位もあったが、今年5月に“自主退学”という形で中退。その決断の理由をそう明かす。

 

人生はつねにアドリブ。決まりきった道はつまらない――。そう語る欽ちゃんの人生は、挑戦の連続だった。

 

’70~’80年代に『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ドン』『週刊欽曜日』などのテレビ番組がお茶の間で大ウケし、“視聴率100%男”と呼ばれるほど出ずっぱりだった欽ちゃんは、’85年に突如それら3番組のレギュラーを降板。映画や舞台の世界で新たな“夢”を探したりもした。

 

そして’05年には、64歳にして野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」の監督に就任。その2年後には『24時間テレビ』のチャリティーマラソンランナーとして、70キロメートルのマラソンにも挑戦……。

 

新たな夢を見つけては、それを追いかけ、かなえ続ける欽ちゃんの“原動力”は、どこからくるのだろうか。

 

「やっぱり人生って、たいへんなほど面白いじゃない。しかも、テレビの世界では、“フツウ”のことばかりやっていては、視聴者は見てくれないもの。笑いを作る人生を選んだからには、人とは違うことをやりたいし。山登りだって、登るときが楽しくて、下っているときは面白くないでしょ。登りきったら、もう次どの山に登るかを考えないと。幸いお母さんは『仕事が好きなら、とことんやれ』っていう人だったから、気持ちよく夢を追いかけられたしね」

 

“お母さん”とは、3歳年上の妻・澄子さん(81)のこと。欽ちゃんは’76年に、澄子さんと結婚していること、そして7カ月になる長男がすでにいることを記者会見で発表。続いて次男、三男にも恵まれたが、当時の欽ちゃんはとにかく“仕事漬け”の日々だった、と振り返る。

 

「まだ子どもが小さかったとき、ぼくは“家族を顧みない旦那”と言われるのがイヤだったから、どんなに忙しくても日曜だけは休みを取って、毎週子どもと遊びに行ったりしていたの。そしたらお母さんが『あなたが無理して楽しそうにしているのはバレバレだし、そういう付き合いをすると、子どもたちがかわいそうだから、やめたほうがいい。そんなことなら、仕事を思いっきりやれば』って。それ以来、ぼくは子どもをほったらかしにして、お母さんにまかせっきり」

 

かつてはその多忙さから、欽ちゃんは家に帰れないこともしばしばあった。だが、子どもたちも所帯を持つようになり、夫婦ともに年齢を重ねてきたいま、“2人の会話”も増えてきたという。

 

「半年ぐらい前に、家で珍しく2人きりだったことがあって。それでお母さんに、『欽ちゃんのどこが好きで一緒になったの?』と聞いてみた。そしたら『好き?』って、すごくイヤそうな顔で言われて(苦笑)。ただ、彼女はしばらく考えて『“好き”ではないわね。ただ、ずっと“ファン”だった』って。そのときに、彼女のこれまでのスタンスが全部わかったような気がした。お母さんは、ぼくの一番のファンとして、“たくさんいるファンの人たちを邪魔したらいけない”という人生を送ってきたんだな、と。ぼくがどんどん仕事をして、みんなに喜ばれて、それを見て何も言わずにそっとしておくことが、ぼくにとってベストだと思っていたんじゃないかな」

 

「理想の人生を歩むうえで、これほどピッタリの人はいなかった」。欽ちゃんは、澄子さんについてそう話す。しかし、「我慢してきたこともいっぱいあったと思うなぁ」と、かみしめるように振り返る。

 

「『ぼくが死んだら“欽ちゃん記念碑”を作って、みんなが遊びに来られるような、テーマパーク風のお墓にしたい』と話したことがあったの。今まで○○したい、と話すと『好きなようにすれば』と言われていたけど、そのときだけは、ジーッとぼくの顔を見て『あんた、死んだ後のことまで夢見るのね』と言ってきた。そして、『あんたの最後の夢だけは、私はどかしておいて』って(笑)。ずっとぼくの夢物語を応援してきてくれたお母さんが、最後の夢にはついていかないとハッキリ言った。『いままで言いたいことはいっぱいあったのよ。でもそれを言うと、あなたの夢が壊れるから言わなかったの』。そんな意思が伝わってきたよ。じっさい、お母さんはぼくと2人で入るお墓を買っていたみたいなんだけど、もうそれは手放して、1人で入れるようなところに買い換えちゃったみたい」

 

澄子さんがあきれるほど、死ぬまで夢を追いかけることを体現してきた欽ちゃん。最後に“人生100年時代”を生きる同世代へこう語りかける。

 

「ぼくがとやかく言わなくても、夢に向かって挑戦しているお年寄りはたくさんいると思う。でも、“もう夢を追いかけなくてもいいんじゃないの”という人は、無理して何かに挑戦しようと思わなくていいんだよ。ぼくが思う、いちばん幸せな年の取り方は、“明日会える人がいる”ってこと。大学はまさにそういう場所だったね。だから、家にずっといるんじゃなくて、買い物ぐらい行ってみたらいいんじゃない。そこで、店員さんに『元気?』って声をかけてみて、会話をする。それができるだけで、十分幸せなことですよ」

 

でも、お母さんと出会えたぼくは、つくづく幸せ者だなぁ――。欽ちゃんは取材の最後まで、そうつぶやいていた。

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