「僕はいつもニコニコ笑うようにしてるんだよね―」
山田たかおさん(63)は子供のときからそうだった。のど自慢に飛び入り参加で大ウケ。番組のご褒美で作ったグループ「ずうとるび」が大人気。そして、ご存じ『笑点』の座布団運びまで、笑いを振りまき、家族やファン、視聴者といった周囲の人たちを楽しませてきた。五代目・三遊亭圓楽や桂歌丸からもかわいがられ、一目置かれたのもこの笑顔があったからこそ。
そんな彼が直面した危機。ずうとるび脱退と離婚を経て無一文になった山田くんを救ったのは、一本の電話だったという。ずうとるび結成から今までの、山田くんの人生を辿ろう。
幼少期に、「劇団ひまわり」に入団。その後中学2年生のとき、日本テレビからオファーが届く。じつは座布団運びよりもずっと前、これが山田くんと『笑点』との出合いだった。
「幼いころから落語が好きで、本を読んだりして勉強もしてました。それで、ある番組で落語『寿限無』を披露したところ、それを見たある放送作家さんが『こいつだ!』ってひらめいたようで。僕と、それに同世代の子供を集めた『ちびっ子大喜利』が始まったんです」
当時、『笑点』の司会は三波伸介。当初のちびっ子大喜利のメンバーには山田くんのほか、キャロライン洋子や林寛子の姿も。
「それから、ドラマで仲よくなった郷ひろみくんにお願いして『紅白歌のベストテン』という歌番組の収録現場を見学させてもらったことがあって。『キャーッ、ひろみく~ん』って、すごい熱狂ぶり。それ見てたら『いいな、俺もこれやろう、アイドルになろう』って思っちゃったんですよね」
ちびっ子大喜利も、座布団が10枚たまるとご褒美がもらえる仕組み。山田くんは「レコードを出したい」とリクエストし、見事10枚の座布団を獲得した。
「アイドル全盛時代でしたから。どうせなら、ちびっ子大喜利の男子でグループを組もう、ってことになったんです」
こうして生まれたのが、4人組のアイドルグループ「ずうとるび」だった。デビュー曲は山田くん作詞・作曲の『透明人間』。当初から、ずうとるび人気はものすごかった。各局の歌番組、バラエティ番組で重宝され、週11本のレギュラーを抱えるまでに。
「紅白? 出られるなんて夢にも思ってませんでした。自分以上に両親が喜んでくれたのが、とってもうれしかった」
しかし、ずうとるびブームのピークは、まさにその紅白だった。彼らの人気は徐々に停滞気味に。同時期、山田くんには私生活でも大きな変化が……。それは人生最初の結婚。1977年、山田くん21歳のときだ。また、メンバー間には音楽性の違いによる軋轢も生じ始め、コミック路線を進みたい山田くんと、歌って踊れるアイドルを目指したいほかのメンバー。そこで、山田くんは脱退を決意。
「やっぱり僕は、どこまでも人を楽しくさせたい、明るくさせたい、笑顔にしたいっていう思いが強くてね。普通のアイドルじゃ、面白いと思えなかった。それに、当時の奥さんの親類とも、どうにも折り合いが悪くて。芸能界引退まで迫られてしまって……離婚することになったんです」
慰謝料と養育費を払い、無一文に。家族を失うと同時に、仕事もどんどんなくなっていった。そんな窮地に1本の電話が入る。かけてきたのは旧知の『笑点』のプロデューサー。用件はただ1つ。
「山田、お前、座布団運びやるか?」
即答した。
「やります、やらせてください。なんでもやりますから」
こうして1984年。「座布団運びの山田くん」は誕生した。その日から36年間、山田くんは家庭用よりはふた回りも大きく重い座布団を運び続けている。
「最初の座布団を誰に持っていったかは、もう忘れちゃった(苦笑)。これまでに何枚、運んだかも……、まあ、申請さえすれば、間違いなくギネス記録だと思いますよ」
山あり谷ありの中で縁が繋いだ“座布団運び”を、これからも笑顔でまっとうすることだろう。
「女性自身」2020年4月7日号 掲載