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「新宿のバーで、放送作家の高平哲郎さん(73)と飲んでいたら、高平さんが『面白いやつがいるから呼ぶよ』って。そしたら、まだ有名になる前のタモちゃん(タモリ・74)が来たんです。テーブルにはいつくばって、イグアナのモノマネとかやりだすから、『なんだこいつ』と最初は思いましたね(笑)」

 

そう当時を懐かしむのは、今年で芸能生活50周年に突入した研ナオコさん(66)。50年の芸能生活において、日本のバラエティ界をけん引したコメディアンとの交友関係は広かった。

 

「タモちゃんには、背中もなめられた(笑)。どうしてそうなったかは思い出せないんだけれど、私が背中の開いたドレスを着ていたのは覚えています。数年後、そのことを本人に言ったら『そういえば、なめたなめた!』って。『バカ野郎! なめた、なめたじゃねぇだろう』と(笑)」

 

タモリ、そしてビートたけし(73)とともに“お笑いBIG3”として知られる明石家さんま(64)とは、同じマンションに住んでいた時期もあったという。

 

「私は彼の部屋のちょうど上に引っ越したんですが、さんちゃんはそのことを知らなかった。脅かしてやろうと思って、仕事で会ったときに『さんちゃん、○○に住んでるでしょ?』と言ったら『なんで知ってまんの?』と不審がったの。私はそれを聞いて『お見通しやで〜へっへっへっ』って笑ってやりました。それで、さんちゃんの家の新聞受けに『上の階の住人に気をつけなさい』と書いた手紙を入れて(笑)。次会ったときに『手紙を入れた犯人は私』とバラしたらめちゃくちゃホッとしてました。相当、ビビッていたんでしょうね」

 

さんまとは“イタズラ好き”な研さんならではのエピソードもある。

 

「同じマンションに住んでいる当時、エレベーターで女のコと一緒になると、そのコがさんちゃんの部屋に行くかどうか大体雰囲気でわかるんですよ。そういうコに限って、私と目が合ったらサッとそらすから。それで、『かわいらしい方ですね〜また違う子ですね〜』と書いたメモを、私の部屋からさんちゃんの部屋にとどくように、ひもにつけて垂らしたりもしたの(笑)」

 

研さんは、バラエティ番組での活躍だけでなく、中島みゆき(68)が作詞・作曲を手がけた『あばよ』(’76年)、『かもめはかもめ』(’78年)など、歌手としてヒット曲も連発している。

 

しかし、40歳のときに歌手・タレントの命ともいえる喉に異変が。ポリープ摘出の手術を受けたあともなかなか完治せず、悩んでいたという。

 

「術後にお医者さんから1週間しゃべんないでください」と言われたから、言いつけは守ったの。でも、1週間たっても声が出なくて歌えないんですよ。そこからイップス(精神的な理由により、思いどおりパフォーマンスが行えないような異変が体に起こること)が始まって、それが20年ぐらい続きました。コンサートが始まる前は緞帳の裏で『私、ここから消えてなくなりたい。消えたい。消えたい。消えたい』って思っていましたから。でも、娘には『開き直って、とにかく全身の力を抜いて』と言われ、美輪明宏さんにも『もっと自分に自信を持ちなさい』とおっしゃっていただいて、気持ちが楽になったのを覚えています」

 

多くの病いも経験したが、今年は芸能生活50周年を記念し、梅沢富美男(69)とのエンターテインメントショー「梅沢富美男劇団」の公演も予定している。研さんの芸能活動の勢いは止まらない。

 

(取材:インタビューマン山下)

 

「女性自身」2020年4月21日号 掲載

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