「『いけいけ、もっとやれ! ああ、もう、何やってんのよぉ~~』。プロ野球中継がある日は、こんなふうに一喜一憂しながら、リビングで1人大声を張り上げています。気づいたら、ソファからも立ち上がってたり。野村監督(克也・享年84)がチーム再生に乗り出したころからのタイガースファン。特にいまはコロナでいろんなことが自粛になっているから、野球観戦が唯一といってもいい楽しみですね。ときどき篠田がやってきて、『ほら、三振するぞ~』なんて、わざと言うんです(笑)」
今年、映画デビュー60周年を迎えた女優の岩下志麻さん(79)。くしくも、その作品『乾いた湖』を監督し、やがて夫となるのが、いまも会話に登場した篠田正浩さん(89)だ。お2人は結婚以来、自立した夫婦の先駆けとして、互いを「戦友」と「同志」と呼び合いながら第一線で活動してきた。120本以上もの映画に出演し、その大半で主役を演じた岩下さんだが、最も多いのが夫である篠田監督とのコンビだ。
そんな岩下さん。実は、学生時代は女優を目指していたわけではないと話す。
「銀座生まれの吉祥寺育ち。父も母も、ともに新劇の俳優でした。3歳のとき、はしかと肺炎を併発して、生死の境をさまよう大病をしました。そのせいで、両親に溺愛されて育ちました。
もともと父は、私をピアニストにしたかったみたいです。吉祥寺に行く前に、弱な私のためにと、空気のいい鵠沼海岸の近くに引っ越したんですが、その家にドイツ製のワイン色のピアノがあったのを覚えています。
中学のころには、精神科医を目指していました。近所に精神を病んだ方がいらして、私は、なんとかこういう人を治す職業に就きたいと思ったんです」
猛勉強で受験を突破し、進学校の都立武蔵高校へ。成績も学年で1番の努力家ぶりだった。しかしこの無理がたたって、病いに倒れてしまう。
「そこへ、父がNHK初の連続ドラマ出演の話をいただいてきたんです。父にしたら、目標を失って虚脱状態だった娘を、なんとか元気づけようと思ったのでしょう。『私も、じゃあ、気分転換にやってみようかな』。そんな軽い気持ちでした。その後、成城大学文芸学部に入学した年に松竹から新人契約のお話をいただき、大学と同時に入社しました。とはいえ、主役をやりたいといった思いはみじんもなく、あくまでアルバイト感覚だったんです」
今年、映画製作100年という節目を迎えた松竹だが、岩下さんが19歳で契約を交わした60年当時、すでに映画界はテレビに押され斜陽といわれていた。同時に、篠田監督や故・大島渚監督らによる松竹ヌーヴェルヴァーグが注目され、そんななか、清純派のスター女優候補として、会社の大きな期待のもとデビューした。
「私、のんびりしていたので、いつか“駆けずのお志麻”なんてあだ名が付いて。当時の松竹は女優王国で、上下関係も厳しく、先輩の女優さんから面と向かって「グズ!」と怒鳴られたりも。斜陽といわれながらも、現場はやっぱりすごい活気にあふれていましたね。
デビューから2年後、小津監督の遺作となった『秋刀魚の味』でヒロインを演じました。この撮影後、小津監督がおっしゃったんです。『志麻ちゃん。人間は悲しいときに、悲しい顔をするんじゃないよ。人間の喜怒哀楽というのは、そんな単純なものじゃないよ』この言葉は、その後もずっと私の演技の原点になっています」
映画デビュー60周年。岩下さんは、来年早々に80歳となる。最近、特に意識するのは、10年前に91歳で亡くなった母・美代子さんの存在だと語った。
「私が80代! びっくりしちゃうわよね(笑)。80代というのは、やっぱり老い、そして死に向かっていきますからね。
そんなとき、晩年を私たち家族と二世帯住宅で過ごした母の姿を思い出すんです。最後は15年くらい脳出血の後遺症で車いす生活でしたが、どんなときも、私たち家族を、『おかえりなさい』とニコニコ笑顔で迎えてくれました。まさに太陽のような人でした。
私の80代というのは、老いに向かうなかで、いかに笑顔でいられるか。母の姿がテーマです。意外に私、いつも自然体なんです。だから、年を取るのもそんなに怖くない。あるがままです」
「女性自身」2020年10月20日号 掲載