住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。
「もう、40年近く前の曲なのに、歌詞も忘れていないし、ぜんぜん歌えちゃいますよね。今の歌は、たとえば繰り返しがなかったり曲の構成も複雑だったりするけど、昔の歌謡曲はすごく入りやすいんですね。ねっ、これで合ってますよね?」
宝塚歌劇団月組の元トップスター・紫吹淳さん(52)が、透き通るような声で、シブがき隊の『100%…SOかもね!』(’82年)を口ずさんだ。
「’80年代初めは、バレエ以外のことに興味を持っていなくて、’84年に宝塚音楽学校に入学してからは寮生活。でも、中2の1年間だけは、バレエから遠ざかっていて、宝塚の存在もまだ知らなかった。同級生と同じくらいにテレビを見て、アイドルに夢中になった、唯一の時期なんです」
バレエを始めたのは3歳のとき。3歩進むと、すぐに転んでしまう紫吹さんを見かねた母が、体のバランスを整えようと、教室に通わせたのがきっかけだ。
「おかげで“体育座り”をしているときも、やたら姿勢がきれいだって、友達から言われていました。将来、バレリーナになることだけを夢見ていたんです」
’80年代に入り、たのきんトリオを筆頭としたアイドル全盛期を迎えたとき、ほかのクラスメートたちは少ないお小遣いでドーナツ盤のレコードやアイドル誌を買っていたが。
「私はトーシューズなど欲しいものはそのつど、買ってもらっていたので、お小遣いとは無縁だったんです。それに、バレエに関わるもの以外に欲しいものはとくになかったので、お小遣いがもらえなくて困ったこともありませんでした。恥ずかしながら、たのきんトリオのことも、かろうじて知っていたのはマッチさんだけ。いま思い返すと、ちょっと浮世離れした子どもでしたね」
友達と遊びに行く機会も、ほとんどなかった。
「土日でも関係なく、毎日レッスンや発表会。たまに『今度○○に行かない?』と友達に誘われるんですが、直後に『あ、ごめん、バレエだよね』って。返事をする前に断られていました(笑)」
それほど頑張っていたバレエから、距離を置いたのが中2のとき。
「まわりより背が高いことに悩み始めたんです。中1で160センチ近くありましたから。『白雪姫』を演じると、王子様よりも私のほうが大きかったり、『白鳥の湖』でも、3〜4羽の群れで踊ると、私だけ目立ってしまって恥ずかしかったり……。それで一時期、バレエをやめてしまったんです。自分に欠けていた“バレエ以外のこと”を知りたいという思いもありましたね。そんなとき、ちょうどデビューしたのが、シブがき隊だったんです」
シブがき隊はドラマ『2年B組仙八先生』(’81〜’82年・TBS系)に生徒役で出演した薬丸裕英(ヤックン)、本木雅弘(モックン)、布川敏和(フックン)の3人組。
’82年『NAI・NAI 16』でデビューし、同年発売の『100%…SOかもね!』で日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞した。トシちゃんやマッチが祝福に駆け付けた授賞式のステージを覚えている人も多いはず。
それまでバレエひと筋だった紫吹さんは、行き場のない情熱をシブがき隊、なかでもモックンに注いだという。
「どハマりしたとはいえ、当時は子どもで、コンサートに行くなんて発想はなく、やれることといえば『平凡』や『明星』(どちらもアイドル雑誌)を買ってもらって、切り抜きを透明の下敷きに挟んだりしたくらい。『ザ・ベストテン』(TBS系)、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)は毎週必ず見ていました。誕生日かクリスマスのプレゼントだった自分専用のラジカセで録音して、アイドル雑誌の付録だった、横長サイズの“歌本”を見ながら、一緒に歌ったりもしましたよ。イケメンのモックンがとにかく好きでした。それで、宝塚を引退してからテレビ番組で薬丸さんとご一緒する機会があったときも、つい『私、シブがき隊のファンでした。でも、ごめんなさい。モックンのファンでした』と言ってしまって……。“えー!?”というような、ちょっと複雑な反応をされていました(笑)」
「女性自身」2021年3月2日号 掲載