■地震の直後、妹から「明日は行けそうにない」。その後連絡は途絶えた
じつは生島さんの妹・亀井喜代美さん(当時57)と夫は、まさに11日の午後、上京する予定だった。
「前月に、妹と暮らしていた母が他界して。僕が東京にお墓を建てたので、妹たちが母の遺骨を持ってきて、納骨式というか四十九日の法要を行うことになっていた。11日は東京のめいの家に泊まって『お兄ちゃんのところには12日の朝に行くね』と言ってたんです」
仙台をたって、およそ15時間。朝の7時にようやく、東京の自宅に帰り着くことができた。それでも、落ち着いてなどいられない。
「地震の直後、妹の自宅からわが家に電話があったそうなんです。『明日は行けそうにないけど、改めてお邪魔します』って。電話を受けた妻は、津波警報が出たのを知っていましたから『なに言ってるの、喜代美ちゃん。そんなこといいから、早く逃げて』と伝えたそうなんですが……」
その後、喜代美さんの電話はまったくつながらなくなった。生島さんはあちこちに連絡を入れ、妹夫妻の安否を尋ねた。「どこそこの避難所で見かけた」「いや、来ていない」「一度来たけど帰ったようだ」……情報は錯綜していた。
「不安でしたけど、ポジティブシンキングの僕ですから、『絶対、大丈夫だ、喜代美は生きてる』ってずっと自分に言い聞かせ続けました。でも、タクシーの車内で気仙沼の映像を見た瞬間、すごく嫌な予感がしたのも確かなんです」
3日後の14日早朝。生島さんはパーソナリティを務めるラジオ番組の生放送に。気持ちを奮い立たせて、マイクの前に座った。
「自分の体験を踏まえながら地震のことをお伝えしたんですが、妹が見つかっていないということも話していくうちに、お通夜みたいな放送になってしまって……」
すると、全国のリスナーからたくさんの、温かなメールが届く。
「『つらいと思いますが、乗り越えてください』とか、『心中お察しします』という趣旨のメッセージをたくさんいただきました。なかには『生島さんから元気をもらえるから、私は生きていけます』って書いてくださった人もいて。放送中、それを読み上げてたら涙があふれてきちゃって。自分で『こんなことじゃダメだ、切り替えよう』って思いましたね」
芸能界の友人たちも、生島さんを心配していた。
「あれは震災から5日後ぐらいですね、アッコ(和田アキ子)さんが電話をくれて。いわゆる“黄金の72時間”、それを過ぎると助かる確率がガクンと下がるといわれる時間を過ぎてしまってましたから。『生島、つらいのはわかる、だけどこれはもう、腹をくくらないとダメだと思うよ』って。僕が現実を受け止められるように、背中を押してくれたんだと思います」
生島さんは、次々に入ってくる被災地の新たな情報を整理し、リスナーに届けることに、ただひたすらに没頭した。そうすることが、不安と悲しみに押し潰されない、唯一の方法だった。