3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日
画像を見る 募金活動のほか、震災で両親を亡くした子供たちを支援する基金を設立

 

■葬儀のタイミングで遺体を発見。「私たちにメッセージをくれた」

 

震災からおよそ半年後。理恵さんたち家族は、遺体なきまま両親の葬儀を執り行うことを決めた。

 

「葬儀の1週間ぐらい前、宮城県警から、もしかしたら母かもしれないご遺体が見つかった、と連絡が。その写真をひと目見て、私は『母だ!』と。着ているものもそうですけど、もう直感的に、間違いないって。でも、まだ100%確定ではないということで、県警の方が、おじたちのDNAも採るために9月4日、葬儀の会場に来てくれた。サンプルが多ければ照合の精度が上がるということでした」

 

「二三六」という番号が割り振られていたその遺体は、理恵さんの実家から数百メートル離れた、大川で発見されたものだった。

 

約2週間後。理恵さんのもとに、ふたたび県警から連絡が入る。

 

「鑑定の結果、遺体番号二三六は母で間違いない、とのことでした。まさに葬儀のタイミングで、親族が集まるなかで判明するなんて。今度は母が、私たちにメッセージを送ったのかな、そう思いました」

 

震災から10年。理恵さんは少しずつ心の整理がついてきたという。

 

「それでも毎年、3月11日は巡ってきますし、悲しみが消えることはないです。でも、母はしょっちゅう、夢に出てきてくれます。当初は悲しい夢が多かったですが、いまは幸せな、なんてことない日常のワンシーンが多い。今年の初夢もそんな、ありふれた家族だんらんの夢でした」

 

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