渡辺美奈代 新聞受け覗くとファンと目が…命の危険感じたおニャン子時代
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■家から学校までカメラ小僧が待ち構えていた

 

無事におニャン子クラブに合格し、愛知から上京して、芸能人が多く通う堀越高校に編入。生活は一変したという。

 

「学校では所属事務所の送迎が禁止されていたので、歩いて通っていたんです。ファンには住んでいた家もバレていたから、家から学校まで、ずっとカメラ小僧が待ち構えていました(笑)。人が集まりすぎて身動きが取れなくなり、近くの商店街に助けを求めたこともありました。警察を呼んでくれるのですが、“身元引受人”である事務所の人に、警察署に迎えに来てもらう姿は、補導された少女みたいでした」

 

番組で「ケンタッキーフライドチキンが好きだ」と話すとカーネル・サンダースの人形が、「不二家のケーキが好きだ」というとペコちゃんの人形が、家の前に置かれていたりもした。ときには身の危険を感じることもあったという。

 

「いまと違ってオートロックもなかったし、住んでいた家は、玄関のドアに郵便ポストがついているタイプで。ふと玄関を見ると郵便受けの蓋が開いていて、誰かと目が合うなんてこともありました。蓋をバンダナで目隠しすると、翌朝、床にバンダナの燃えカスが落ちていたり……」

 

熱狂的なファンがいたのは、それだけ多くの仕事をこなしていたから。あまりの忙しさのなか、鮮烈に覚えているのが、マッチとの“出会い”だったという。

 

「マッチさんとは同じレコード会社で、幼いときは数枚しか持っていなかったレコードの、サンプル版とかを何枚ももらえたんです。そんなご縁もあり、私を担当してくれたディレクターさんがマッチさんの『愚か者』(’87年)を手がけていたこともあって、歌番組に出演したとき、ご挨拶する機会に恵まれたんです。『小学校、中学校から、ずっとファンです!』と話しかけたら『ありがとう』と言ってくれて、優しいお兄さんでしたね。ほんの短い時間でしたが、憧れの人のひと言が心に残って『私もがんばろう』と思えたんです」

 

だからこそ、おニャン子クラブ解散後も迷いなく芸能界に踏みとどまり、新境地を切り開くこともできた。

 

「あるとき事務所の人から“バラエティはどう?”って言われたんです。それでお歯黒をしたりして、挑戦してみたのですが、やっぱり抵抗があって……。しばらく考える時間をもらうことにしました」

 

悩んだ末、コントに挑戦しようと決心できたのには、志村けんさんの存在が大きかったという。

 

「『自由に楽しくやってくれれば、あとはほかの人が引き出してくれるから』とアドバイスをしてくれました。私との距離を近くするため、お歯黒のメークなども、志村さん自らやってくださったんです」

 

’80年代の初めにテレビで見ていたスターたちが、美奈代さんを励まし、支えたのだった。

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