■オーディションにはことごとく落選、それでも開いた朝ドラヒロインへの道
英語劇を通じて、藤田さんは演じることへの興味をますます深めていく。
「『De☆View』(勁文社)という雑誌を見て、舞台や映画に出演できるオーディションを中心に受けました。でも、ことごとく落ちてしまったんです」
当時“視聴率100%男”と言われていた萩本欽一の『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(’81~’83年・フジテレビ系)、『欽ちゃんのどこまでやるの!(欽どこ)』(’76~’86年・テレビ朝日系)、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(’82~’85年・TBS系)を欠かさず見ていた。
「それで日曜は欽ちゃんが司会の『スター誕生!』(’71~’83年・日本テレビ系)。とにかく欽ちゃんが大好きで『週刊欽曜日』の欽ちゃんバンドオーディションにも応募しました。落ちてしまったんですが、そのことを後に欽ちゃんにお話しすると『それはよかったね』と(笑)。落ちたからこそ、女優として大きな経験となる朝ドラにつながったんだという、欽ちゃんならではの、やさしい表現でした」
オーディションには落ち続けたが、舞台に立ちたい思いは失われなかった。ただ、プロへのこだわりはそれほど持っておらず、ダメなら普通に就職して、社会人の演劇サークルに入ろうとも考えていたという。そんな藤田さんが大学時代、体育館で英語劇の稽古をしていたときのこと――。
「2人1組になり、1人が体育館の端から端まで向かっていき、もう1人がそれを阻止する。阻止されずに向かい側の端までたどり着けたら、夢がかなうという設定のゲームをしたんです。私は役者になりたいという夢を描いて向かい側を目指したんですが、結局、たどり着けず、くやしくて泣いてしまって。それを奈良橋さんは『いいよ』と褒めてくださいました。役者への思いがそれほど大きかったことに、気づかされた出来事でした」
ようやくオーディションで合格を射止めたのは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』。21歳のときだった。
「公演の1年前に決まって、それからは有名無名問わずカンパニー全員が集められ、絆を強めたり、作品への造詣を深めたり、発声練習をして、どのように声帯を動かすのが医学的によいかといったことまで学びました。斉藤由貴ちゃんと私がいちばん若くて、みんながすごくかわいがってくれました」
ミュージカル出演後、朝ドラ『ノンちゃんの夢』のヒロインに抜擢され、知名度は全国区に。
「いえいえ、私自身はあんまり気づかれることもなかったんです。『愛しあってるかい!』では、陣内(孝則)さんや柳葉(敏郎)さん、キョンキョン(小泉今日子)などすごい人たちが一緒だったので、京都のお土産屋さんでのロケなど、人が集まりすぎてしまったこともありました。危ないので、裏口からこっそり1人ずつ出たのですが、私が乗ったタクシーの運転手さんは私にまったく気づかず、『前のタクシーに小泉今日子が乗っているんだよ』なんて教えてくれたぐらい(笑)」