■アイドルになってお母さんに家を建ててあげたかった
だが、なかなかテレビに出演する機会には恵まれなかった。
「それでもクラスの子たちは私が芸能界に憧れていることを知っていたから、’84年に『ミスマガジン』に応募したときもすごく協力してくれて。みんなが知り合いにまで頼んで、最終的に1万通あまりの応援はがきが集まったのですが、グランプリは取れませんでした」
手が届きそうでありながら、なかなか届かなかった芸能界。でも諦めることはなかった。
「小4のときに両親が別居して、翌年に離婚。私はおばあちゃんに面倒を見てもらい、母は朝から晩まで働いていました。だから“アイドルになって、お母さんに家を建ててあげたい”という夢もあったんですね」
高校時代は週に1回、千葉の学校からスクールバスと電車を乗り継ぎ、片道2時間かけて六本木まで歌のレッスンに通った。
「いつも遅刻ギリギリで、六本木の芋洗坂を吐きそうになりながら全力疾走していたことを、今でも思い出します」
音楽の趣味が洋楽になったのも、このころ。
「母が再婚して、2番目の父ができたのですが、洋楽関連の仕事をしていて、コンサートのチケットをよく取ってくれたんです。当時はマイケル・ジャクソンやジャネット・ジャクソン、マドンナ、フィル・コリンズ、ワムなどが人気で、MTVも欠かさず見ていたし、来日コンサートがあれば、必ず行きました。カルチャー・クラブのボーイ・ジョージの色気のある声が好きで、『カーマは気まぐれ』(’83年)は、いま聴いても気持ちが上がります」
映画も洋画を見に行くことが多かった。なかでも高校卒業の翌年に公開された『トップガン』は忘れられない作品だ。
「確か錦糸町の映画館で見たと思います。とにかくはやりましたよね。男子はみんなMA-1を着て、レイバンのサングラスをして。トム・クルーズが映画で身につけていた軍の認識プレートは、私も持っていました。戦闘シーンの撮影はアメリカのサンディエゴで行われたそうですが、うちの夫が以前、その基地の近くに住んでいたんです。私も実際に現地まで行って、あの爆音を近くで聞いてみたい! と、いまだに思っています」
映画音楽もまた魅力的だった。特にテーマ曲になっている、ケニー・ロギンスの『デンジャー・ゾーン』が好きだったという。
「あの曲を聴くと、血が騒ぐというか、生命力が湧き上がってきて、“自分も何か大きなことができるんじゃないか”と思えるんです。『フラッシュダンス』(’83年)もそうですが、サクセスストーリーで、夢がありましたよね。当時の映画や音楽には特に、人の背中を押してくれるパワーがあったと思うんです」