■母を恨めしく思ったことはない。しかし母の涙を見たときは心の中で謝罪した
片山さんは1987年7月、埼玉県で生まれ、群馬県で育った。先述のとおり、生まれてきたときから彼女の四肢には疾患があった。
「正式な病名は、先天性脛骨欠損症。健康な人の足は、膝下に脛骨と腓骨と2本ずつ骨がありますよね。でも、私は太いほうの骨、脛骨がない状態で生まれて」
母は未婚のシングルマザー。片山さんいわく「母はとても強い人」。娘が物心つくころから病気や体のことについて、しっかり教え諭していたという。
「母もすごく勉強したみたいで。自分が読んだ本を私にも読み聞かせてくれた。『こういう障害がある人がいる』とか、『こんな病気がある』と。そして『それは誰が悪いわけでもないのよ』とも」
だから、自分の体のことで、母を恨めしく思ったことはない。
「だって『なんでこんな体に産んだのよ!』なんて文句を言ったところで、なんにもならない。足や指が生えてくるわけじゃないから」
幼いころの片山さんは足に補装具を装着、なんとか歩行もできた。
「でも、成長してくると細い腓骨だけでは体を支えきれなくなって。医師は『この先、車いすにするか、足を切断し義足をつけるか。どうしますか?』と。おそらく母がそう聞かれて、私に『どうする?』って聞いたんだと思うけど。あんまりはっきり覚えてないんです」
当時、片山さんは学校でいじめにあっていた。クラスの子供たちは「バイキンがうつる」「気持ち悪い」と心ない言葉を浴びせてきた。
「あれは7歳だったかな。家でひとりで遊んでいたとき、たまたま鏡で自分の姿を見たんです。まだ足があるころ、初めて客観的に補装具なしの自分の素足を。私、ゾッとしちゃって。『ああ、こんなに皆と違ってたんだ』と。それで『この見た目のせいで、私はいじめられるんだな』って、思っちゃって」
9歳。片山さんは自ら、両足を切断し義足となる決断を下した。
「義足になれば、皆と同じ靴が履ける、そう思ったんですよね。でも、いざ手術を受けて、初めて義足を装着してみたら、なんか棒みたいな、ロボットの足みたいなのがくっついていて。『え、義足ってこういうことだったの!?』って。義足に、皆と同じ靴は履けるようにはなったけど、結局いじめは中学卒業まで終わらなくて。私の性格のせいかな、って思った(苦笑)」
母に似て、片山さんも強かった。決して、泣き寝入りはしなかった。
「いじめた子たちが、いちばんいやがることしてやろうと。それで、先生に『全員の親に連絡して』って言ったんです。『してくれないと、私は二度と学校に来ません』と交渉して。その後、それが伝わったのか、いじめはしばらくおさまりました。私、いやなことされたら100倍にして返したい人間なんです。だから、強いんじゃなくて性格が悪いんです(笑)」
気丈な片山母娘だったが、いまも、目に焼き付いた母の顔がある。
「ひとり親で家計も、私の面倒見るのも大変だったはずなのに、母は弱音を吐いたことがない。でも、1回だけ、彼女が泣いた顔を見たことがあって。あれは、私が小学校4年生ぐらい。学校に迎えに来てくれた母が、泣きはらしたような目をしてた。『どうしたの?』って私、聞いたかな。母はたしか『ママ友と話してた』と。それ聞いて『あ、私のいじめのこと、相談してたんだ』って、すぐピンときた。『私のせいでママを傷つけちゃった、ママ、ごめんなさい』って心の中で謝りましたよ」
中学卒業後は地元の商業高校に。
「幼いころから母に言われてたんです。『いざとなっても肉体労働なんてできないんだから。資格を取るとか、堅実な仕事に就きなさい』って。その高校は市立で、市役所への就職率も高かった。それに、改築されたばかりの校舎にはエレベーターがあって。『いいね、いいね』って感じで選びました」
入学式当日、片山さんはある誓いを立てたという。
「友達を作らない、と決めたんです。小、中学校時代の私は、それでも、やっぱり誰かと関わりたいと思っちゃったから失敗したんだと。距離が近くなって刺激し合って、それがいじめの原因になったんだと思ったんです。だから、高校の3年間は絶対、友達を作らない、そう決めて。でも、波風立てずに友達を作らないって、けっこうたいへんで。クラスのヒエラルキーを把握して、自分の立ち位置を決めたりしながら、本当に卒業まで作らなかったんです、すごくないですか(笑)」