■きっかけは若手作家の登竜門。就職希望だったが、次第に責任感が生まれた
幼いころから、いじめが原因で学校を休みがちだった片山さん。家でひとり、絵を描いたり、裁縫をして過ごす時間が好きだった。
「うちは貧乏で『欲しいものは自分で作りなさい』というのが母の教え。母はよく、自分の服をリメークし私の服を作ってくれました。それを見て育ったから、私も自然と針と糸を持つようになって」
中学生になると、片山さんは自分のホームページを立ち上げ、SNSにも登録した。
「ちょうどそのころ、母が現在の父と交際を始めて。システムエンジニアだった父にパソコンのこと、教えてもらったんです。自分の文章やイラスト、義足に描いた絵の写真なんかをアップしてました」
だから高校時代、学校に友達はいなくても寂しくなかった。
「友達はネットの世界に大勢いました。しかも、世界中に。彼らと毎日、ネットを通じておしゃべりできたから、満たされてましたよ」
幼少期から続けた針仕事、それにインターネットが、彼女をアートの世界にも導くことになる。
「高校では就職試験に向けた小論文の授業があって。毎回、時事問題が提示され『これについて述べよ』と。そこには『こう書かないとだめ』ってルールもある。でも、私は『自分の思いを書かないと意味がない』って思ってた。ただ、授業の時間内に自分の思いを言葉にすることが、なかなかできなくて。仕方なく毎回、白紙で出してたら『これでは単位はあげられない』ってことになってしまって」
すると、ある教師が手を差し伸べてくれた。
「私、絵を描いた義足で学校にも通っていて。美術部の顧問もしている進路指導の先生も、そのことを気にかけてくれていたみたいで。『義足の絵のことなら書けるんじゃない? 小論文の練習と思って書いてみたら』と助言してくれたんです。それで、思い切って書いてみると、たまたま先生のもとに来ていた公募展の募集要項に、その文章がちょうどいいということになって、応募することになって」
公募展というのが「群馬青年ビエンナーレ」だった。彼女の綴った文章は見事、書類審査をパス。
「次は『作品を提出してください』と。作品なんて作ったことないのに。慌てて近くのホームセンターで材料買ってきて作りましたよ。そしたら、その二次審査も通ってしまって、最終的には奨励賞までいただけることになって」
審査員の1人は「今日からきみはアーティストだ」と、背中を強く押してくれた。でも、押された当人は依然、就職希望だった。
「就職したかったんですけど、私の場合、障害者手帳一級を持っていて。それを伝えると、どこも雇ってくれないんですよね」
当時、地元の中小企業の多くは、片山さんを雇うためのバリアフリー対応ができていなかったのだ。
そこで、片山さんは公募展受賞をたよりに美学美術史学科のある群馬県立女子大学に進学。さらに、東京藝術大学大学院へと進んだ。
「学生時代は作品制作のほかに音楽活動や、頼まれてモデルの仕事をすることもありました。それで、藝大大学院まで行ったんですけど。そのころも私、アーティストになる気はさらさらなくて。それで食べていけるとは到底思えなかったから。ハローワークに通って就活。エレベーターがあって洋式トイレがある会社がいいなぁ、なんて思いながらね。でも、やっぱりことごとく落ちちゃって。皮肉なことに、お声がかかるのはアート方面ばっかりだったんですよね」
就職活動を継続しようとリクルートスーツ2着を持参し、東京で一人暮らしを始めたところに舞い込んだのが「あいちトリエンナーレ」への出展オファーだった。
「すごい大規模な展示をさせてもらって。その後も、六本木の森美術館や東京都写真美術館、群馬県立近代美術館などでグループ展をする機会をいただいて。19年にはヴェネチアにも。だから、こんな言い方は、ほかのアーティストの人に失礼なんですけど、私の場合はなりたくてなったというより、気づいたらアーティストになっていた。作品が人前で発表されたり、誰かの手に渡ったりした瞬間『作品に責任取らなきゃ、きちんとアーティストと名乗らなくちゃ』って」
それから結婚し、出産も経て、現在はまた少し違った感覚で作品作りに取り組めているという。
「自分ではそこまでこだわってきたわけじゃないんです。義足が主役なんて思ったことないし、特別扱いされるのもいや。ただ、もしかしたら私自身、呪縛に囚われていたのかも。ずっと追い求めていた“正しい体”という呪縛に」
こう自らを分析した片山さんは「でも」と続け、笑みを浮かべる。
「5年前、娘の陽毬(ひまり)が生まれて、ちょっと変わったんですよ。彼女の目線で自分の体を見られるようになったというか……最近は、自分の体を素直に楽しめるようになってきたんです」
「ママの足とか手、どう思う?」片山さんがそう尋ねると、娘は「いちばん好き!」と元気いっぱいに答えた。夫と愛娘とともに歩み、アーティスト、そして母として、人生に新風を吹き込んでいくーー。